打って、守って、恋して。

ピンとも来ない私は眉をひそめて彼の答えを待ち続けたのだが、そちらは一向に何も話し出さない。

それもそのはず、パーテーションの向こう側にはぴったりと監視でもするように淡口さんたちがくっついてじぃっと見入っている。
コソコソと「テレビで見るより大きく見えるな」とか「でも野球選手にしては華奢っすよね」とか、丸聞こえの会話を繰り広げていた。

よく見ると淡口さんの手にはまっさらな色紙が。
どこから用意したんだろうか、都合よく!


─────結局、淡口さんたちは旭くんにサインをもらい、ちゃっかり写真も何枚か撮り、さらには経理の人まで呼んできてサインをもらっていた。

帰りがけに営業の人たちとすれ違ったけれど、旭くんはまったく顔も隠さずに普通にしているのでこちらが心配になったものの、軽く会釈する程度に留まった。

「……みんな気づかないのかな」

「誰も分かんないよ、俺のこと」

そんなもんなの?と信じられない気持ちでいると、彼は肩をすくめて笑っていた。

「よっぽど野球に詳しい人ならまだしも、地元の球団を応援しているくらいの人なら他球団の、しかも別なリーグの選手なんて把握してないでしょ」

「そっかあ」

「それに俺、あまり特徴のない顔だし」


旭くんは、いつも得していると喜んでいるのだ。
栗原さんみたいに目立ってしまうと大変だけど、何もかもが普通のおかげで普通の生活を送れているのだと。

たしかに夢の国に出かけた時も、誰一人、彼がプロ野球選手だと気づく人はいなかった。

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