シュガーとアップル
彼が初めて来店したのは、ハンナがただの清掃員から、やっとパン作りの端くれに昇格してから3ヶ月ほど経ったころだった。
初めて伯爵が店に現れたとき、その場にいたお客さんや、カウンターでレジを打っていたマルレーネ、そして自作のアップルパイを並べていたハンナ、全員がその姿にくぎ付けになった。
城下町の上流階級区に屋敷を構えるような貴族さまに、こんな下町も下町な古ぼったい場所に住む人間たちはめったにお目にかかれるものではない。
こちらが上流階級区に赴けば話は別だが、伯爵自ら下町にやってくるなど前代未聞の事例だ。
左胸につけられた銀のワッペンの輝きに臆されず、堂々とした立ち姿、それにその場にいるすべての人間の目を惹きつける美貌。
売り場の異変に気付いて出てきたヘンドリックさえ、伯爵の姿を見るなり数秒呆けていた。
伯爵は店に入るなり、はじめ何かを探すように店内を見回した。
固まる来店客、マルレーネ、ヘンドリックをその目が通り過ぎ、やがて窓際の傍で同じように固まっていたハンナを見つけると、薄い唇が小さく開いたーーーように見えた。
目があったハンナは、緊張と戸惑いで腰が少し引けていたと思う。
開きかけた唇から何かが発せられることはなく、代わりにハンナのもとへ歩み寄ってきた。
まさか貴族が自分などのような娘に用があるとは思えず、ハンナは目の前に立った伯爵を息を止めて見上げるしかなかった。
真っ青な宝石のような瞳。吸い込まれそうなほど深い海のような色。
もしや本当に何か自分に用があるのではないかとハンナが錯覚しかけたとき、彼女を見つめていた海の瞳がふいに彼女の手元に下げられる。
「アップルパイをひとつ、貰いたいのだが」
「……………………えっ!」
彼が求めたのはもちろんハンナではなく、ハンナが持っていたアップルパイだった。
一同が固唾をのんで見守る中、ハンナは何が何だかわからないまま、お客さん用のトレイにアップルパイを一つのせて伯爵に手渡した。
「どうもありがとう」
その時の伯爵のふわりと笑んだ美しさは、もはや言葉では表し難い。男性相手にここまで華やかで美しいと感じたことは、ハンナは今までになかった。
そして、アップルパイの礼を言われただけなのに、自分へ向けられた微笑みが思いのほか親密なものに感じられて、ハンナは一瞬で伯爵に心を奪われてしまった。