イジワル御曹司と契約妻のかりそめ新婚生活
「……ありがと」
くすぐったい感情を抱えて、ぽつりと小さくお礼を言った。長年のぼっち体質だ。そう簡単にうまくいくとは限らないけれど、味方がいてくれると思えるのは嬉しかった。
それからは、郁人には先に帰ってもらいひとりでさっさと残業を終わらせようと思ったのに、どういうわけか隣のデスクで彼は彼でタブレットを使っていた。
……ふたりきりのオフィス、静かな空間に時計の秒針の音と、私のキーボードの音が響く。なんとなく、この空気が落ち着かなくてさっきから仕事の進みが遅い。似ているのだ、先週から読み始めた恋愛小説のワンシーンに、このシチュエーションが。
不意に、彼がコーヒーのカップに手を伸ばした。
「ひとくちもらっていいか」
「え、あ、うん?」
もちろん、そのカップは元々彼のものだし。私は借りてるだけなのだけど、それ、既に私がもう口をつけちゃってのだけど。
たかが、間接キス。そんなもので今時うるさく言うのもおかしいだろうから何でもないフリをしたけれど、その後私はひとくちもコーヒーを飲めなかった。
決して嫌だったわけではない。馬鹿みたいに意識してしまって、とてもじゃないが手を出せなかっただけなんだ、と心の中で誰に向けてかわからない言い訳を必死でやっていた。