小さな傷
日曜日

いつもよりかなり早く目が覚めてしまい、自分が思った以上に緊張しているのだと自覚した。

朝食もほとんど喉を通らず、とにかく洋服選びに専念した。

実は昨夜も遅くまで洋服を選び、一度は「これ」と決めたのだか、朝になりよく晴れている空を見たら、もう一度洋服を選びなおしたくなった。

待ち合わせは11時、それまではまだ3時間以上あったが、結局洋服選びに1時間を要し、化粧と身支度を整えているうちに待ち合わせ30分前になった。

少し早いが、待ち合わせの駅まで行くことにして、玄関で靴を選んでいると

「悦子、お出かけかい?」

父が声を掛けてきた。

「あ、お父様、おはようございます。ちょっと友人と買い物に。」
「どこまで?」

「横浜の方へ。」
「横浜?」

しまった。

私の友人で横浜に行く人などいないことは父もわかっている。

「誰と行くんだね?」
「あ、美智子さんと。」

「彼女が横浜に?」
「あ、はい、先日お会いした時、最近横浜でおしゃれな店が増えたとか話していて、じゃあ一度行ってみようということになりまして…。」

かなり苦しい言い訳だ。

「そうか…まあ良い、気をつけて行っておいで。」
「ありがとうございます。では、行って参ります。」

何とか乗り切ったが冷や汗ものだ。

「あ、悦子。」
「は、はい!」

「何をそんなに驚いている。門限は守るようにな。」
「あ、はい、もちろんです。では、行って参ります。」

父とのやりとりのせいで、待ち合わせに五分遅刻となってしまった。
いつもより高めのヒールを履いていたけれど、とにかく必死で走った。

学生時代から脚には自信があったが、流石にハイヒールだとバランスが取りにくい。

何度か転びそうになりながら駅前に駆け込むと、停車場近くにオープンカーを止めてタバコを燻らせて彼が待っていた。

「ごめんなさい!遅れてしまって!」

その声にゆっくり振り向くと彼は黙ったまま、息を切らしている私を見つめた。

やはり遅刻をして怒っているのか、それにしてはどちらかと言うと驚いたような顔をしている。

「綺麗だ。」
「えっ?」

彼が呟いた言葉が聞き取れなかった。

「So Beautiful!」

今度は、しっかり聞こえる声で言うと、オープンカーのドアを開けて

「お姫様、こちらへどうぞ。」

ちょっとカッコつけ過ぎではあったが、彼がすると嫌味なくさまになる。

「素敵です。今日はアメリカの友人達に相当自慢できます。」

なんだか、気恥ずかしくなり、明らかに頬が赤くなるのを感じた。

でも、昨夜から悩みに悩んで、春先としてはまだ少し寒いかもと思ったけど、思い切って木綿の白にグリーンの葉脈をあしらったワンピースに生成りのボレロを合わせてみたのが、よかったみたいで嬉しかった。

車は風を切りながら、出来たばかりの首都高を抜けて、横浜港に向かった。

オープンカーに初めて乗ったので、風が寒いかと思ったが、少し陽気が暖かかったのと、ヒーターを入れてくれたおかげで、さほど寒くはなく、快適なドライブになり、1時間ほどで、横浜港に着いた。

ドライブの間も彼が楽しい話題をいくつも用意してくれて、1時間はあっという間だった。

「着いたよ。足元に気を付けて。」

サッと私の方に回りドアを開けながらそう言うと、降りぎわに私の手をそっと握り優しく引いてくれた。

目の前には横浜港の波止場と、少し先に人工の島が見えた。

「あれが、ノース・ドッグです。」

一見すると倉庫が並んでいるだけのようだが、目を凝らしてよく見ると米兵らしき人があちらこちらで蠢いていた。

「いつもはあちらの方から大型トラックを使って荷出しをしてます。」

彼が指差す方向を見る。

「結構大変なお仕事ですね。」

私が思ったことを口にすると

「確かに重労働ですが、おかげで体力が付くのと米兵と仲良くなることで、色々物が手に入り、結構得なこともあります。」
「へぇ、どんなものが手に入るんですか?」

「主には食料ですね。肉、特に今はまだ日本には出回らないアメリカ産のステーキ肉とか、ビーフジャーキーとか…」
「ビーフジャーキー?」

「あー簡単に言うと干し肉です。牛肉を干して塩気を加えたもので、ビールには最高ですよ。」

あまり、お酒を飲まない私には今ひとつイメージが付かなかった。

「あとは、女性にはやっぱりお菓子、特にチョコレートは日本で出ているまがい物と違って本当のカカオを使った濃厚な板チョコが手に入りますよ」

それはかなり魅力的だ。

戦後間もない頃に進駐軍からの払い下げ物資の中にあったアメリカのチョコレートの味は戦後十数年経った今でも忘れられない。

「さらに仲良くなると色々情報も得られますしね。」
「情報…ですか?」

「あ、そんな機密情報とかじゃないですよ。例えば雑誌をもらえてアメリカや欧米のファッションの流行がわかるとか。」
「わぁ、素敵、それ是非知りたいです。」

女学校時代私は服飾科にいたので、お洋服にはとても興味があった。

特に欧米の最新ファッションの流行なんて、まだあまり入らないご時世だったから、そういう情報にはとても惹かれた。

「じゃあ、そろそろ知り合いが経営してるカフェに行って昼食にしましょう。」

そういうと彼は再びオープンカーのドアを開けて私を導くと自分はドアを開けず運転席に飛び乗って見事にすっぽりとはまった。

銀次さんは身長は175㎝はあったと思うが、スリムだったからより身長が高く見えた。

行動のスマートさはもちろんだが、何よりも女性への気遣いが、いわゆる日本男児とは明らかに違った。

いったいどこでこんな風なエスコート術を身につけたのだろう。

米軍基地には大人になってからの出入りみたいだし、申し訳ないけど、お金はないと言ってるから裕福な家庭での育ちでもなさそうだし、ちょっと見た目の不良っぽさはまさに銀次さんらしい雰囲気だけど、裏に隠れたスマートさは、いったい?

最もそのギャップが魅力的ではあったのだが。

「着きました。」

駐車場に車を入れると目の前に大きなネオン看板があり「Star Dust」と描かれていた。

恐らく夜は煌びやかに灯がともるのだろう。

彼が店のドアを開けると中から客の賑わう声が漏れてきて、明らかに英語が飛び交っているのがわかった。

少し気後れしていると、彼が私の手を取って店内まで導いてくれた。

「Hi Ginzi-san いらっしゃーい」

青い目の薄い茶色い毛の女性が銀次さんに声をかけてきた。

彼がその女性と何やら英語で少し話したあと彼女が私たちを窓側の席まで案内してくれた。

「どうかな、この雰囲気は。」

少し落ち着いて店内を見回すと、外国人ばかりでなく3分の1くらいは日本人ぽい若者がいるのがわかり、ちょっと安心した。

「日本人も結構いるんですね。」
「あぁ、この店はもうここで長いから、地元民には普通に利用されてますね。」

「なるほど。」
「まあ、ドッグが近いから平日のランチや夜のバータイムでは、大半がドッグの連中で埋め尽くされますけどね。」

そういうと銀次さんはにっこりと笑った。

先程の青い目の女性が注文を聞きに来た。

メニューは日本語でも書かれていて、オススメを聞くと銀次さんも青い目の彼女も迷わず「ハンバーガー」を勧めた。

言われるままに頼むと、すぐに瓶のコーラが出てきて、コップも無しに置かれた。

銀次さんが気を遣ってコップを頼もうとしてくれたけど、私はあえてそれを制した。

「やっぱ、アメリカ式で!」

そう言ってコーラの瓶を掲げ銀次さんと乾杯の仕草をして、瓶の口から直接コーラを飲んだ。

少しむせそうになるが、なんとか耐えて銀次さんに

「美味しい!」

と少し強がった。

「So Cool!」

銀次さんも一言いうと、再び瓶を合わせてコーラを飲んだ。


「楽しかったー」

店を出ると素直に気持ちを伝えた。

「それは、よかった。でも、驚いたよ。」
「何が?」

「いや、君、英語は全くって言ってたから、気を遣ってたら、シーラ(店員の青い目の彼女)と、いつのまにか英語で喋ってるし、他の友人も巻き込んで最後は店中パーティみたいになって、とてもランチタイムとは思えない盛り上がりになって、シーラも店を出るとき君のこと「何者?」て笑ってたよ。」
「あら、少し騒ぎすぎたかしら。」

「あはははは、いいねー悦子さん、ただのお嬢かと思ってたけど、僕の見立てが間違ってた。益々好きになりそうだ。」
「えっ?」

銀次さんがサラッと言った言葉にはさっきまで大胆だった私も、直ぐに返答できなかった。

「ん?どうしました?」

銀次さん、わざとなのか、案外鈍いのか、ちょっとだけ彼のことを理解できなくなった。

「さて、いつのまにか夕方だね、じゃあ車に乗って。」

そう言って車に乗せられると、横浜の高台の方に車を走らせた。

駐車場に車を止めて少し歩くと横浜の街が一望できるところまで連れてこられた。

「野毛山公園は初めて?」
「はい、初めてです。」

片方には港方面、片方は横浜市内が一望できて、夕暮れ時のオレンジがかった街並みが素敵だった。

ふと横を見ると銀次さんが同じく街並みを見て目を細めていたが、彼の顔も半分が夕日に照らされ影を作ったもう半分の顔とのコントラストが映えていて、胸がキュンと締め付けられるような感覚になる。

しばらく無言で日が沈むのを見ていたが、やがて街に灯りが灯りさっきまでの夕焼けとは違う夜景が映えはじめ、煌めく夜の横浜が目を覚ました。

その時
銀次さんはそっと私の肩を抱いて、少しだけ力を入れて私を引き寄せた。

私もなすがままに身体を預け銀次さんの二の腕あたりに頭をもたれかけた。

「今日は楽しかったですか?」

銀次さんが聞くと

「もちろんです。日頃経験できないことが出来たし最後はこんな素敵な夜景まで見れて…最高に楽しかったです。」
「今日が最高と思わないでほしいな。」

「えっ?」
「これから、毎回会うたびに最高を更新するから。」

「あ、はい、楽しみにしています。」
「悦子さん、これからも僕と一緒に最高の時間を過ごしてくれるかい?」

私はコクリと頷いた。

次の瞬間頷いたアゴをグッと引き上げられ、同時に肩にまわされていた手が腰の辺りに移ってグイッと持ち上げられると、一瞬にして唇を奪われた。

2、3秒後、唇は少し離され、彼が私を見つめたが、同時に私は彼の首に手を回し、今度は自ら唇を求めた。

長く甘いキスが続いた。

周りに少し人がいたかもしれなかったが、全く見えていなかった。

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