小さな傷
「悦子⁈」

母が玄関先でずぶ濡れの私を見て驚いた。

しかし、すぐに私を居間に上げ婆やにバスタオルと温かい紅茶を用意するように命じて、私の髪を拭きながら背中をさすってくれた。

そして、何も聞かず私の身体を温め続けてくれた。


翌朝目覚めると、昨日の雨が嘘のように晴れ上がり、眩しい朝の光を部屋に届けてくれた。

しかし、私の心は目覚めることなく、ずっと一つのことに囚われていた。

『銀次さんは何故来なかったのだろう』

車で事故にあったのではないか。

身内に何かあって急に来れなくなった。

大切な友人に助けを求められてどうしても出向かなければならなかった。

無理のある設定と分かりながら考えずにいられなかった。

それは、もう一つの答えを打ち消すために、そのことを考えないために、考え続けた。

"私は嫌われた"

「おはよう悦子さん」

母は何もなかったというように、ごく普通に朝の挨拶をしてきた。

「悦子お嬢様、おはよう…ございます。」

婆やの方が正常な反応だ。

何があったのか、聴きたくてしょうがない。

そう考えるのが、普通だ。

朝食を食べていると

「悦子さん、私に何か話したいことがあれば、いつでも言いなさい。私は何があっても貴女の味方、そして、愛しているから。」

ティーカップを持つ手が震えだし、堪らずテーブルに置いた瞬間、今迄流したことのない涙が溢れ出て顔を押さえながら伏せた。

母はゆっくりと席を立ち、私の両肩にそっと手を乗せたまま、私が泣き止むまで一言も発しなかった。

「お母様、私…嫌われてしまったのかも。」
「どうしてそう思うの?」

「だって…駆け落ち…二人で何処か遠くに行こうと言われて決断して待っていたのに彼は…銀次さんは来なかった。」
「……」

「最初は車の事故に巻き込まれたとか、身内に不幸があったとか考えたけど、それなら何かの方法で連絡をとってくれるはず。それにどんなに遅れても私のところにきてくれる。それが銀次さんだから。」
「あなたから会いに行ったらいいじゃない。」

ハッとした。

そうだ、私から会いに行けばいいんだ。

私は新しい昭和の女とか言って気取ってたけど、明治の女の方が、よっぽど先進的だ。

待つのが女という古い価値観に囚われていたのは私の方だ。


昼過ぎに家を出て銀次さんの下宿先の銀座八丁目に向かった。

銀座も四丁目あたりは近代的なビルが建ち始め、賑やかだが、まだ八丁目辺りは平屋の家なども多く立ち並んでいた。

「ここだわ。」

前に手紙を出すために聞いていた住所をたよりにようやく銀次さんの下宿にたどり着いた。

玄関の引き戸を開けると、畳一畳ほどの広さの土間に草履やら革靴やら、流行ってきたハイヒールなどが所狭しと敷き詰められていた。

「ごめんください」

声をかけると部屋の奥から股引姿で三十代くらいの男性が頭を掻きながら出てきた。

「あのぉ、平方銀次さんを訪ねて来たのですが…」

恐る恐る聞いてみると男性はしばらく何やら考え出した。

そして
「あぁ、あのアメリカかぶれのにいちゃんか。」
「あ、はい、多分その方です。」

「あー、確かぁ、昨日出て行ったよ。」
「えっ?」

我が耳を疑った。

「だから、昨日荷物をまとめて軽トラ一台に詰め込んで出て行ったよ。」

俄かには信じられなかった。

まだ、現実味はなかったが、

「では、行き先をご存知ないですか?」
「いやぁ、ここじゃお互い干渉しないのがルールだから…故郷(くに)とかそういうのは一切聞かないんだ。だから行き先もわからんな。」

私はなんとか御礼を述べて、そこを後にした。

抜け殻のようになった私は、どうやって家までたどり着いたかさえ記憶になく、気づいたら自分の部屋でただ茫然としていて、母に声をかけられてようやく正気を取り戻した。

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