小さな傷
あれから五十年の月日が流れた。

私は24の時に父から紹介された税理士と交際を始め、一年後に結婚、二人の娘を授かり、育て上げ、七年前に「おばあちゃん」になった。

優しくしっかり私を支えてくれる今の夫に何も不満はない。

ただ、あの時ぽっかりと空いた胸の中にある穴は未だに埋められない。

午後になり、昼食を摂りがてら出かけないかと夫に誘われて、久しぶりに銀座に出向いた。

昔と違って今じゃ外国人観光客も中国人や東南アジアの人が多く、アメリカ人らしき人はあまり見かけない。

あの頃まだ平屋もあった八丁目辺りも殆どがオフィスビルになり、休みの日は割と閑散としている。

また、銀座通りに出て、喫茶店に入った。

窓に向かって座った私は夫越しに外の人の流れを無意識に追っていた。

歩行者天国には、カップルや幼子を肩車した若い夫婦など、春先の暖かい陽射しを受けて楽しげに行き交っていた。

注文を済まし、夫と孫の成長の話や最近会った友人の話など取り留めもない会話をしていると、窓の外に佇んでいる老人に目が止まった。

「まさか…」

思わず声が漏れてしまった。

「ん?どうかしたかな。」

夫が食事の手を止めて問いかけてきた。

「あ、いえ、なんでも。」
「そうか…」

再び食事をし始めた夫に

「ごめんなさい。ちょっと…」

とだけ言って、店の外に出た。

窓の外を見ている夫の視線から、見えない位置にまで行き、その人が移動して来るのを待った。

「銀次…さん。」

声をかけられた老人は、ピタッと動きを止めてゆっくりのこちらを振り返った。

真っ白な髪の毛はそれでもきっちりと分けられ、細身に紺色のベストにグレーの少し厚手のジャケットを着ているその老人は少し驚いた顔で私を見つめると

「悦子さん…ですか?」

私は少し伏し目がちに

「はい。」

とだけ答えた。

ほんの数秒だったと思うが、二人の間の時が止まり、青春の思い出が、古い映画のように流れ蘇った。

「話をしたいです。」

思わず口を突いて出た言葉だった。

「えぇ、僕も。」

私は娘に買ってもらったばかりのスマホを取り出すと、彼もすかさずスマホを出し、通信機能を使って連絡先を交換した。

わずか、3分ほどの出来事だった。

喫茶店に戻ると夫は穏やかな顔で、

「どうかしたのかい。」

と訪ねてきたので、

「昔の友達がいたと思って、追いかけたのだけれど、人違いだったみたい。」

と、咄嗟に嘘をついたが、

「そうか。」

と言って、夫は再び穏やかな顔で、食後のコーヒーを啜った。


家に帰り冷静になると、彼と会うべきなのか悩んだ。

ただ、やはり、あの夜何故私を迎えに来てくれなかったのか、そのことだけは答えを聞きたい。

そして五十年もの間、ぽっかりと空いた胸の空洞を埋めたかった。

次の日の昼間、夫が近所のスーパーに買い物に行ってくれている間に、銀次さんに電話をした。

「もしもし、悦子さん?」
「今、大丈夫ですか?」

「えぇ、大丈夫、話せます。」

そしてついに会う約束をした。

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