小さな傷
約束の日の朝、私は鼻歌まじりに着ていく衣装を選んでいた。

「なんか、楽しそうだね。」

夫の問いかけにハッとして鼻歌を止めた。

「えぇ、春子さんと久しぶりに会うからつい…。」
「友人というのはいいものだね。気をつけて行っておいで。」

正直後ろめたさはあった、でも、我儘であることはわかっていたけれど、この五十年間の思いにどうしても決着を付けたかった。

昼過ぎに銀座に出向いた。

待ち合わせは、二人が初めて話をした喫茶店だった。

そこは当時、出来たばかりの喫茶店で、コーヒー豆をブラジルから仕入れていると話題になって若者が絶え間なく出入りしていたが、今では銀座の老舗喫茶店として時折テレビなどにも出る有名店になっていた。

しかし、内装は当時と変わらないまま、今は"レトロ"と言われ繁盛していた。

店に入ると、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐり、懐かしい思いが蘇った。

「悦子さん。」

声をかけられて振り向くと、今通り過ぎた席に銀次さんが座っていた。

「失礼します。」

ぎこちなく対面の席に座った。

コーヒーを注文したあと、二人ともしばらく言葉を発しなかった。

彼は少し俯きかげんで、ジッとテーブルの灰皿に目をやっていた。

「煙草…どうぞ」
「いや、やめたよ。もう20年くらいになるかな。」

私は初めて彼とこの喫茶店に入った時も、同じように煙草を勧めたことを思い出した。

その時彼は、

「すみません」

と一言いって、でも、嬉しそうに胸元から煙草を取り出し、米軍の友人からもらったというジッポーのライターで火をつけて美味そうに紫煙を燻らしていた。

「そうですか、今は吸わない人が増えてますものね」

たわいない会話の途中でコーヒーが来た。

互いに一口だけ啜り、カップを置いた。

「あの…」「あのぅ」

同時だった。

「ここはレディファーストといいたいところだけど、あなたが聴きたいことと僕が話したいことは、おそらく同じだから、僕から話させてもらうよ。」

私は静かに頷いた。

「本当に申し訳ないことをした。まずは謝らせてください。」

そういうと深々と頭を下げた。

「今更言い訳になるけど、事実は伝えておきたいから、話をしますね。実は、君と駆け落ちの約束をした前の日に君の父上から僕に電話があったんだ。」
「えっ?…父が…ですか?」

「うん、そして駆け落ちする日の午前中に会うことになった。」
「父と、会ったんですか?」

「えぇ、本当は会いたくなどなかったけれど、電話口で日時を一方的に伝えられて断る間も無く電話を切られてしまいました。」
「……。」

「当日まで無視しようと思っていたのだけれど、その日の朝、どちらにせよ君を奪いに行くのだから、ケジメの意味でも会った方が良いという気持ちになったんだ。」
「それで…会ってどのような話を?」

「会ったのは、新宿の小さな喫茶店だった。なんでも君の父上の職場の近くということだった。」

あの店のことだとすぐに思い浮かんだ。

「君の父上より早く行っておこうと30分も前に店に行ったのに、君の父上はすでに先に来ていて、先を越されたことで、僕は少し気後れしたまま対峙することになってしまった。」
「……」

「まずは一発怒鳴りつけられると思い身構えていると、父上は『何を飲むかね?好きなものを注文しなさい。』と静かに言われ、拍子抜けしたよ。」

ある意味父らしいと思った。

父は税理士ということもあり、とても論理的で合理的な考えを持っている。

大抵の場合、相手はその論理性に舌を巻いて父の意見が大勢になることが多いと父の仕事ぶりを母から聞いたことがある。

「注文したコーヒーが来るまで父上は一言も発せず、その静かな威圧感に圧倒されそうになったよ」

これも父が取引先との間でよく使う手法だ。

「コーヒーがきて、一口つけると、父上も同じようにコーヒーを飲み、ほぼ同時にカップを置いた。その時、いきなり父上は深々と頭を下げて『頼む、娘とは別れてくれ』と言ってきた。最初はその勢いで殴られるのかと思ったくらい迫力があったよ。」
「父が…頭を下げた?」

「そうです。土下座ではないですが、ほとんどテーブルに額を擦りそうなくらい頭を下げられて、本当にびっくりしたよ。」

父は頭を下げられることはあっても自ら下げることなど、仕事では恐らくないだろう。

「そして、ゆっくりと、君のことをどれだけ大切に思っているか、なんとしても自分の力で幸せにしたいことを得々と語り出した。」
「……。」

「さらには僕のことをいい加減な男ではないことはわかっているし、君のことを大切に考えてくれていることも、理解している。何故なら我が娘が愛した人間だから、間違いはないと思っている、とのことだった。」
「父がそんなことを…。」

「僕は始めどんなことを言われようが、蔑まれようが、絶対に怯むことなく立ち向かってやると気構えていたのに、変に認められたような言い方をされたおかげで冷静に物事を考えられるようになった。」
「どういうこと…ですか?」

「僕自身が君の父上だったら、大切な娘を知らない男に持ち逃げされたらどんな気分になるか、信じていた娘に裏切られたと思ってしまうだろう。本当は相手の男を恨むべきだが、きっと娘のことも恨むことになるだろう。
そう思ったら、君の父上の気持ちが少しかもしれないけど伝わってきて、同調してしまった。」
「……。」

「もちろん僕の君への愛情も父上に負けないくらいあると思っていたし、そこで引くつもりはなかった。」
「じゃあ何故きてくれなかったのですか?」

「もう一つ君の父上が、言ったんだ。『恐らく悦子は君といることだけで幸せと感じるだろう。でも、現実は甘くはない。少なくとも金には苦労するだろうから、夫婦して働かなければ食っていけないだろう。子どもだって安心して作れないだろう。何より生活をすることは恋愛感情だけではやっていけないことだ。そんな苦労は悦子にさせたくはない。君はその苦労を悦子にさせないで幸せにできるか?』
と、問われたんだ。」
「銀次さんは…どう答えたのですか?」

「問われた瞬間は、二人でやっていけば、例え苦しくったって乗り越えていける、と考えた。けど…」
「けど?」

「よく考えると、君の父上は苦労を乗り越えさせたいのではなく、苦労をさせたくないと言われたんだ。」
「?」

「つまり、今の僕の力だけで、君に苦労を負わせずに幸せにできるか、問われたことになる。」
「私は一緒なら、どんな苦労だって厭わないつもりでした。」

「君の気持ちはわかっているよ。でも、君の父上は本当に強い愛情を持っているなら、君に苦労をさせないだけの甲斐性がお前にあるか、と言われたと理解したんだ。」
「……。」

「正直なところ、君と一緒に苦労を共にすることはできるつもりでいた。けれど、君の父上が出した条件は、君一人くらい食わせる甲斐性がなければ幸せにはできない。ときっぱり言われた。そして僕自身も"そのとおり"だと思ったんだ。」
「そんな…私はあなたと一緒にいさえすれば、それだけで幸せだったのに…。」

「僕も同じ気持ちだった。父上と話す前までは。でも、話をして君の父上の真意がわかったんだ、君に苦労を負わせてでは、本当の意味で幸せにしたとは言えないことを。」
「それであなたは私を迎えに行くのをためらったの?」

「理解してくれないとは思うけど、それに許してもらえないこともわかっているけれども、父上の言う通り、本当の意味で幸せにできないのであれば、身を引くべきだと考えたんです。」
「ひどい…男同士で話をして、私に何の相談なく、勝手に結論を出して、結果私をおいてけぼりにしたなんて…」

涙がこぼれた、この歳になって人前で、それも男性の前で涙を見せるとは思わなかった。

けれども、それほど悔しかった。

「言い訳のしようもない。本当に申し訳ないことをしたし、男として最低のことをしたと、ずっとその思いは続いている。恐らく死ぬまで。」
「ご家族は?」

こぼれ出た涙をハンカチで拭い銀次さんに聞いた。

「えっ?僕の?」

私が頷くと、

「今も独りです。あの日以来新しい恋はできませんでした。」

そう言って銀次さんは力なく笑った。

その哀しそうな笑顔を見て一層込み上げてきてしまい、再び涙が溢れ出した。

なるべく周囲に気づかれないようにと声を殺したが、鼻をすする音はどうしても、抑えられなかった。

「悦子さんは…いま、幸せですか?」

不意に銀次さんが聞いてきた。

そしてその"幸せ"という言葉を頭の中で反芻した。

真っ先に夫の顔が浮かんだ。

「幸せ…です。」

素直に言葉が出た。

夫とは銀次さんと離れて一年後に父の紹介で出会い、そのまま結婚をした。

父と同じ税理士の夫はとても優秀で、独立後も仕事は常にあってお金の苦労は一切なかった。

私はずっと専業主婦で、贅沢はしなかったが、ある程度の欲しいものは容易く手に入ったし、余暇も十分楽しめた。

その状態は今でも続いている。

「僕の選択は間違っていなかった。」

そう言うと銀次さんは先ほどとは違う、本当の笑顔を私に向けた。

私はハッとなり、自分が幸せである今があるのは、あの日の銀次さんの決断があったからこそなのだと言うことに、改めて気づいた。

「じゃあ、もう、恐らくは会うことはないと、思います。どうか、お元気で。」

そう言うと銀次さんは小さく会釈をして、くるりと背を向けて銀座通りの人混みの中へ消えていった。

銀次さんの後ろ姿を見送りながら、自分の心がとても落ち着いていることを感じた。

今日銀次さんと会う前は、変に浮かれた気分になっていて、会った瞬間にあの頃の感情が蘇り、二人でこのまま何処かに行ってしまうかも、などという想像まで、していた。

「ふふっ」

独り笑いが抑えられず、息が漏れた。

私は銀座通りを銀次さんとは反対の方に歩き出した。

その時浮かんだのは、家で帰りを待つ優しい夫の笑顔だった。


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