Q. ―純真な刃―
「で……でもっ!」
錆を擦り落としながら押し引かれた扉に、マルは性懲りもなく床を滑るようにして立ちはだかった。足裏の皮がめくれ、地面にはうっすらと線状のシミがついていた。
「でも、だけど、完治していない状態では……!」
「はあぁぁ」
「っ!」
焦燥の浮かぶマルの顔面に、有害な煙が吹く。いいや、それは、マイナスに近い地下独特の室温によって白く可視化された、単なる吐息だ。頭ではそうとわかっているのに、副流煙を浴びたときの気持ち悪さから書き換えられない。ボス自身が煙草よりも罪深い劇薬なせいだ。
「でもでもうっせえなあ」
「……す、すみま……」
「俺さ、だいぶと待ってやったよな?」
しゃくれた笑顔が、マルに禍々しい陰影を落とす。マルはとっさに口をつぐんだ。
「俺ぁ、心が広いよなぁ。ふつうここまで待ってくれねえぜ?」
黒装束の下から野球グローブに似た素手が伸び、すぐ横にある樽に突っこむと、
「なあ」
ひっくり返す勢いでマルに水をぶっかけた。
「……っ!」
「なのにお前は、まだ俺に指図するってか?」
「……ぃ、っ……」
口の端がいやに滲みた。あ、さっきのビンタで切れたのか、海水じゃなくてよかったな、お風呂にもちゃんと入れてなかったし。……と、考えたところで、マルは自分の感覚がずれていることを悟り、笑いそうになった。
今さら寒さは感じない。
マルの正当な感覚が、また、閉鎖されようとしていた。
ぽたぽたと雨漏りする視界に、何かがが見切れて映った。サンカクだ。シーツにくるまり、生理的な涙を隠している。
マルの目の奥に、ふつふつと煮えた衝動がこみ上げた。
「……なんだよその目」
「え……」
ボスの広い心とやらに、あっさり亀裂が入る。
「親に向けていいもんじゃねえな!?」
地下一帯に震撼する、音量調整不調の怒鳴り声。
その声に引けを取らない、傍若無人な雑音が続けて響く。
(……お、や?)
必死に現実から目を背けていたサンカクは、つと、時が止まったように意識を一点に定めていた。
いつの間にか横転しているマル。その上に足を乗せたボス。
顔も見たくないと言わんばかりにボスは自分よりはるかに未発達な子どもを玄関掃除と同じ要領で足蹴にしている。その扱いはどう見ても、汚らわしいドブネズミを駆除するそれだ。
相対するふたりを、サンカクは順繰りに見やる。
ホワイトアウトした脳内に、まだ授業で習っていない漢字一文字の単語がぎりぎり象形を成してよぎった。
さっき、その単語が聞こえた、気がした。けど。ありえない。聞き間違いだ。そうでないといけない。だって。だって。
だって。
「おらっ! おらっ! お前っ! ごときがっ! 歯向かうんじゃっ! ねえっ! よっ!」
「ッ、……」
「親の言うことは聞くもんだろっ!!」
ボスの頭に巻かれた黒いターバンから金髪がはみ出て、激しく暴れていた。
無防備に地べたを這いずる、薄肉の素足を、地団駄を踏むようにスタンプし続けた。聞き覚えのある軋轢がひっきりなしに鳴る。牢の扉を開閉するときと同類の音圧だった。
マルの足がだんだん平べったくなっていく。
ぺっ、とボスの唾液が飛んだ。1ターン前ですでにびしょ濡れになったマルの髪の毛には、目に見えたダメージはさほどない。
マル自身、何も発しなかった。痛いのいの字も。何も。
水気を吸った柔肌はよく切れやすく、傷の痛みもより広がりやすいというのに。