Q. ―純真な刃―
サンカクの対角側にいるシカクが、たまらずマルを庇おうと前に出る。
「やっ……やめ……ま、ま、る、が……っ、死んじゃ……っ」
「あぁ? なに、てめえもやられてえの?」
「ひ……っ」
が、狂人の殺気にあえなく身を引いてしまう。しかし虫の居所の悪いボスは、自分に楯突く奴を放ってはおかない。
黒いブーツのつま先が、シカクのいるほうへと向き――ッガ、と不自然に留まる。マルの手が足首をつかんでいた。火事場の馬鹿力というやつか、巨体の軸がわずかに崩される。
「だ、め……ボス……やめ、て……」
「ハ……ハハッ! ギャッハァ!!」
なぜかボスは笑っていた。
笑いながらつかまれていないほうの足でマルの肩を突き上げ、笑いながら足をつかむ手をはぎ取り、笑いながら床に伏した紅葉型の手にブーツの足跡を刻みこんだ。
ボスの仲間の、でかい図体をした男2人も、ケラケラ笑っている。まーたやってるよ、あーあスイッチ入っちゃった、と映画館で映画を観るくらい月並みな様子だった。止めに入る選択肢は、概念すら存在していない。
何がそんなにおもしろいのか。
どこぞの心霊現象よりよほどホラーな光景に、シカクはたった二本の足では耐えられなくなり、どすんっと音を立ててねずみ色の底に尻を打ちつけた。
けれどもはやボスはマルしか眼中にない。
蟻の行列を見つけた無邪気な小学生のように、マルの手を、指一本一本に至るまで執拗に狙い打つ。
不意に、ぽきり、と空虚な音がつんざいた。
「は、ァ……ッ!!」
「アハハハハ!! お前はほんっといい音が鳴るなあ!! たまんねえぜ!!」
それまで舌を噛んででも声を飲みこんできたマルが、とうとう渇いた喉を開いた。漏れ出た息の根に、ボスの気分は絶頂に達する。
「はぁ……いい子だなぁ、お前なぁ」
つくづく幸せそうにささやき、つま先でマルの額あたりを雑に撫でまわした。額が赤くこすれ、濡れた前髪に泥がつき、ぐわんぐわんと脳を揺さぶられる。
その足でマルの胴体をリフティングして弄ぶ。紫がかった細腕が、鞭みたくうねった。先ほどよりも無意味な攻撃が増え、そのわりに一回の威力が高い。笑い声が絶え間なくこだまする。
ボスは心の底からマルと遊んでいるようだった。
こうなるとわかっていて、マルはずっと痛みをこらえていた。
だけどだめだった。
痛くて、苦しくて、自分が今生きているのかもわからなくなる。
顔はぐちゃぐちゃだ。きっと今なら泣いてもバレないだろう。マルのいるところに赤黒い水たまりができていた。
咳きこめば、簡単に血反吐がこぼれた。
思考が、トぶ。
(おや、って、なんだっけ……? パパやママのこと……だっけ……?)
サンカクは心ここにあらずの状態でボスの暴行を追っていた。
一部始終を見ていても、ちっとも理解できない。
マルはどうしてあんな目に遭っているのか。
マルはボスの何なのか。
いったい何がどうなって……。
すると突然、ボスと目がかち合った。
「……あーそっか、33番、持ってくんだったな」
まるで寝起きも同然にボスの興奮が白けていく。
音の出なくなった人形を土足で踏み越え、のそりのそりとサンカクのほうに詰め寄る。
虚弱な心臓が今にも羽ばたきたそうに骨と肉の壁に体当たりし出す。最近やっと和らいできた飛行機事故の傷が、いつ開いてもおかしくなかった。
逃げたくてもそこが隅でそれ以上先には行けない。ボスのフォルムが拡大していく。サンカクは意味もなく体を壁に押しつけた。
「よかったな、外に出られるぞ」
「い、いや……っ」
「ジタバタすんな。俺の決定は絶対だ」
しがみつけるものもなければ暴れられる体力もないサンカクを捕まえるのは、虫を虫かごに入れるより容易いことだった。
サンカクを小脇にはさんだボスに、仲間2人は待ちくたびれて早くしろと急かす。
「いやだ……やだよ……! はなして……! たすけて……!」
治りかけの声帯に負荷をかけてでも泣き叫ぶしか、今のサンカクには抵抗の術がなかった。
「い、いきたくなっ、……やだ……! こわい……おろして……! おねが……っ」
「チッ。うっせえな」
「そいつの顔はぶつなよ」
「わぁってるよ」
牢からボスがいなくなる。
サンカクが、連れていかれてしまう。
「た、たすけっ……たすけて……!!」
それでも牢の子どもたちは誰ひとりとして動かない。
動けるはずがない。血みどろな地獄を目の当たりにしたばかりだ。
汗、涙、鼻水、よだれ、小便、排出できるものは勝手にあふれ出た。呼吸するのもやっとだった。
あの、マルでさえも。
「んじゃあな。そこでおとなしくしてろよ」
「や……っ、ぁ、マルぅ!!」
首の皮一枚で薄目で見上げたマルに、サンカクが手を伸ばす。
マルの口は返事ではなく、血しか出なかった。
――ガチャンッ!
無骨な鉄格子が、非力な手を阻む。
扉に鍵がかけられた。
薄暗い監獄の向こうで、男3人が暗黒の微笑を見せつけている。
彼らのせせら笑う声がマルの鼓膜に焼きついていた。
ほんとに性格が悪い。
絶対に、許さない。
マルは意地でも意識をつなぎとめた。