Q. ―純真な刃―
『おーい、えーん。途中報告』
耳元で虫の羽音が過ぎたようなイヤホンのバイブレーション。寝起き以上に機嫌を損ねた成瀬は声の主である勇気の名をぼやいた。
「んだよ……」
『なに、寝てた?』
「んな楽じゃねえっつの」
そっか、と笑う勇気は、いつになくのんきな調子だった。
待機中の成瀬の現状は、イヤホンから発信される位置情報から簡単に推察できる。だから連絡してきたのだろうが、常に緊張状態だった成瀬からしたらだいぶ平和ボケしているふうに感じる。
『こっちは現状異常なし。暇すぎて眠ぃくらいだ』
「ぜってえ寝んなよ。俺をこんなとこに駆り出しておいて」
『わぁってるよ。そっちは? 何かあった?』
「なんも。ただ便所入ってっただけ。怪しい奴も見てない」
『ふーん。わざわざそっち側に?』
言われてみればそうだ。こんなしみったれた場所まで来る意味があっただろうか。ここにしかトイレがないわけあるまいし。
見張られていることに気がついての算段か、いや、だとしたら脇が甘い。それじゃあ単純にここのが使い勝手がいいのか。
深く考えすぎだろうか。物事すべてに理由があると断定するほうが傲慢だ。
「……あ、出てきた」
遠くでスライドされた清潔な扉に、イヤホンの通信を切ると、かすかな摩擦音を聞き取れた。
奥から排出される華奢な面影に陽が当たる。
くっきりと浮き彫りになっていくその外形に、成瀬はマスクをつけ直すのを忘れて見入ってしまった。
LEDの電球で白飛びした金髪。
血管が透けて見えそうな薄膜の肌。
胸ポケットに避難させていた白い手袋に、陸に打ち上げられた魚の尾のような手がすべりこむ。
凍てついた三角の目がいたずらに階段の、成瀬のいるほうへ向けられた。
「――、」
あ。
と、成瀬が口を開いた、そのとき。
うしろから突如、何者かに口を塞がれた。
指の長い手が隙だらけの顎をがっちりと押さえつける。
血の気がどっと下がる。気が動転して頭が回らない。
今にも崩れ落ちそうな足を成瀬は自らの手でわしづかみにする。ぐっと爪を立て、無理やり神経を起こす。
(だ、誰だか知らねえが、や、やらねえと……やらねえとっ!)
スカートをめくり、仕込み刀に手をかけた。
(お、俺は……そうだ、さむらい……侍、侍……。やれる。できる。俺は……っ)
「しっ。落ち着きなさい」
鼻をかすめる、薔薇の芳香。
成瀬の心臓が一瞬止まった。ドライアイの眼をゆっくり、ゆっくり、背後に流していく。
「ご苦労様。潜入はおしまいよ」
そこには、高等部にいるはずの姫華がいた。
つかみ上げた刀の柄から、だらんと手が抜け落ちる。
ひゅー、ひゅー、と彼女の手の隙間から成瀬の呼吸音がすべる。
浅く浮いた息遣い。何か言いたげにしぼむ瞳孔。ファンデーションを犯す脂汗。変装の見栄えより、その動揺の仕方に彼女は眉をしかめた。
「千間さんと連絡がついたからあなたの任務はここまで。あとは警察に任せましょう」
黙ってうなずく成瀬に、姫華はやさしく腕を下ろした。その手で成瀬のコートを取り、矯正効果の切れ始めた黒髪の上からかぶせてやる。
踊り場を曲がった廊下の向こうを、窓ガラス越しに姫華は一瞥する。まるで鏡のようにやわく垂れた金色が反射していた。だんだんと階段側に近づいてきている。
うつむく成瀬の手を引いて素早く踵を返した。階段を打つヒールの音がふたつ、チャイムの音色にかき消された。