Q. ―純真な刃―
もぬけの殻となった広間で、クリスタル製のろうそくを円形に吊らしたシャンデリアの下、姫華は椅子に深く腰かけた。背もたれに長髪を垂らし、体を安静にくつろがせる。
隙はなかった。
背に向けた庭園に、薔薇が何本生き残っているかすら、つぶさに把握している。
だから、
「……あなたは行かなくていいの?」
王冠に見立てたシャンデリアにくっきりと浮かんだ影にも、目を瞑ることはなかった。
仲間がみな一様に働きに出た広間に、音もなく立ちすくんだ人の影。目を向けずとも誰だかわかる。
黒い髪の付け根が、金に輝いていた。
「あのころと変わらないのね、シカクは」
商品番号、4番。
偽りの名を、シカク。
選り好みされた少女たちの鳥かごで、翼の折れた少女のふりをし続けた哀れな少年。
そして、今、その少年は――
「いえ、ここではこう呼ぶべきね。そうでしょう、ねえ、成瀬円」
――日本中から脚光を浴びる、一人前の人間に羽化しつつある。
一字ずつ刻印するように名前を呼ばれ、成瀬ははじめて自分を認識されたような気持ちになった。
番号でもコードネームでもない、本当の、本名。
「……別に、好きに呼べば」
照れ隠しんでもなんでもなく、本心だった。
本名だからって特別思い入れはない。
どちらかというと「シカク」のほうが愛着があった。あのころ、唯一心を開いていたマルが名付け親で、何度も呼んでくれた名前だから。
もちろん番号呼びは論外。思い出すだけで、売りに出される恐怖がよみがえり、きまって人身取引の競売にかけられる夢にうなされるはめになる。
それに引き替え、「成瀬円」というフルネームは、成瀬にとって記号も同然だ。産まれたときに定められたというだけであって、地図記号と存在意義は変わらない。
とはいえ、今、姫華に呼ばれて心が弾んだことも、まぎれもない事実であった。
彼女のことも呼び返そうとしたが、今ここでなんて呼ぶのが正しいのかわからなかった。姫華と呼び捨てにしていいのか、女王様とたてまつればいいのか。
しかし脳内に色濃く銘打たれるのは、かつてともに飼われていた地下牢で散々聞いた、あの子どもじみたあだ名だった。
彼女に付与された番号、日本に帰還してから知った名前も、ずっと記憶の箱に仕舞っていた。
彼女のことだけではない、当時の被害者――商品番号33番に至る全員、鮮明に憶えている。当時は幼心から馴れ合いはしなかったものの、なかったことにできるほど落ちぶれてはいない。
被害者の子どもたちとはあれ以来、誰とも会っていない。
それは殻にこもっていた成瀬に限ったことではなく、仲良く身を寄せあっていたか弱い少女たちのほとんどがそれぞれ関係を絶っている。
おそらく理由はみな同じ。
薄汚い地獄にいた過去とはおさらばしたいのだ。
(何ごともなかったようにふつうに生きて、ふつうに暮らして。そうやってなんとか進もうと思ってた……けど)
だけど、出会ってしまった。
よりにもよって裏社会のど真ん中で。
「二度と会うつもりなかったのに」
思わず口をついて出た本音に、成瀬はハッと人中を引き締めた。
番号がちがうだけで同じ商品であった少女は、この館の王にまで這い上がり、元紅組のボスたちを昨日のことのように恨んでいた。
かつて地下牢で行き倒れていた幼子の面影は、どこにもなかった。
それでも成瀬は、すぐに同胞だと気づいた。
鮮やかになびくその金髪を目にしたとき、一瞬、どちらか迷ってしまったけれど。
だってあの地下牢には、稀有な金髪が自分を含め3人もいた。
みんなを逃がしてくれた、マル。
ひとり連れていかれてしまった、サンカク。
噂の悪名高き女王様が、どうか“あの子”でなければいい。そう願っている自分がいた。
それと同じくらい、噂を耳にしたときから予感はあった。何年の月日が経とうとも、姿かたちが変わろうとも、一度しみついてしまった感覚は簡単には消えてくれない。
そうだ、本当は最初からわかっていたのだ。
彼女を呼ぶべき名は――。
「私も会うことになるとは思わなかったわ」
「――……っ」
喉まで出かかった呼び名を、成瀬はひゅんと飲み込んだ。さっきたしかに嬉々として弾んだ心が、どろりとなし崩しに沈んでいく。
彼女はいっこうにこちらを見ようとせず、伏せた瞼に影だけを乗せる。それが気に食わなくて、成瀬は当てつけるようにもう一度つぶやいた。
「俺……会いたくなかったよ」
ほかの誰よりも、あなたにだけは絶対に。
それなのに再会してしまえば、暴力的に止められた時間が否応なしに進み始める。
まるで命のカウントダウンのようで、でも逃げられなくて、痛くて、苦しくて……苦しかった。
「私もよ」
こともなげに同調する彼女に、成瀬はいきり立った。
「ならなんで……!」
全部、知っていたくせに。
同胞がたまり場に来ること。
それがシカクであること。
……いや、再会する前から、ずっと。
思い出されるのは、立ち入り禁止と言われた3階の部屋の壁一面に貼られた大小様々なスクラップ。
そこにいくつもあった「成瀬円」の名前。一緒くたにまとめられた別の名前や顔は、あの地下牢にいた被害者やその関係者だった。
いつどこで誰が何をしたのか、こと細かに調べ上げられていた。
その傷だらけの手を、血に染めて。
彼女はいまだに地獄の淵に立っているのだ。
(あんな目に遭ったんだ、そうなるのも当然だ。俺だってときどきうなされて寝つけねえときあるし、体の傷痕が治んなくて水着撮影NG出してるし。……それに、家族への期待もまったくしなくなった)
出会わなければその程度でいられた。
お互いの傷に干渉せず、えぐり拡げることもなかった。
なのに……なぜ、追い詰める真似をする。
「仕方がなかったのよ。誠一郎さんにどうしてもと言われて」
余裕ぶって足組みした態度に、成瀬はカッと紅潮する。
「仕方ないってなんだよ! んなの断ればよかっただろ!」
「あなたに必要なことだと言われたのよ。そして私も結果的に賛同した、それだけのことよ」
「はあ? 必要なこと? たかが演技指導なんかになんで賛同すんだよ」
すると思わずといった様子で彼女の瞳にようやく成瀬が宿された。
「あなた……まだ気づいていないの?」
「え……?」
「鈍感ね。よく考えなさい。答えはもうあなたの内にあるはずよ」
しかしすぐにまた視界から引きずり下ろされる。挙句、核心部分はもったいぶって教えてくれず、それがあなたのためだとかきれいごとをこじつける。
ふざけるな。
と言いかけ、すんでのところで舌を噛み締めた。酸いのある痛みが広がり、あとを追うように鉄の味がにじんでいく。
「……っ、知らねえよ」
いやだった。
平静を装う彼女が。
絹のような肌と同じように心の中も澄み渡っていると思わせる、欺瞞な女王像が。
見ていられなかった。
古の呼び名を持ち出したのはそっちのくせに。
目の毒。
きっとここは毒だらけ。
会うたびに濃くなる薔薇の香は、きっと血の匂いを隠している。
「俺が、会いたくなかったんだ……!」
いてもたってもいられず成瀬も彼女から顔を背け、それでも足りずに広間を出て行った。
無意識に足が向かったのは私物でマーキングした洋館2階の個室で、 自分を嘲笑うしかなかった。
わかっている、一番の毒はほかでもない逃げた自分だ。
逃げたくても逃げられない。一度テリトリーに立ち入ってしまえば、どこから、何から、狙われるかわからない。
ふつうに生きたい、そんなありふれた願いすら叶わなくなる。
(……なんて、全部、言い訳だ)
物理的に距離を取ろうと思えばできた。監督の命令なんか反故し、学校と同じように芸能人の特権を乱用して寄りつかなければよかった。
しなかったのは、彼女がいたから。
過去を経てどうにか生きながらえた彼女と、再会してしまったから。
(会いたくなかった……)
会ってはいけない。
会うべきではない。
会わないほうがいい。
会わずにいたい。
――合わせる顔がない。
傷は治らない。
ならばせめて悪化しないように。
でも。
本当の、本当は。
会いたかった。もう一度だけ顔を見たかった。
ちゃんと生きているんだと安心したかったし、してほしかった。
(……いや、やっぱり俺たちは、会っちゃいけなかったんだ)
生きた心地のしない最底辺に、安心することも、放っておくこともできなかった。