Q. ―純真な刃―
今日からバレンタインフェスが始まる繁華街では、いつにも増して浮き足立った人々でごった返している。
薄暗くなっていく街並みに、人の頭からこぼれ出たようなハートのネオンライトが点灯する。アルコール臭よりもチョコレートの匂いが強かった。
成瀬が勇気とともに大通りに差しかかると、一般人を装った神雷構成員数人とすれちがった。
謎の果たし状の対策として、全員で表立って出待ちせず、私服警官のごとく一般客に扮して捜査する手筈になっている。
予告のあった交差点で立ち会うのは、副総長のふたりと下っ端数人、その中に成瀬も含まれていた。
『令月の頭、夜の街の十字架を拝み待たれよ』
バレンタインムードぶち壊しの予告が、成瀬の脳裏に蔓延る。
矢に破れたあの日からもうすぐ1ヶ月。
成瀬はあれから姫華とまともに顔を合わせていない。ドラマ撮影が佳境に入ったせい、というのもあながち嘘ではない。本音でもない。
会いたい。会いたくない。
逃げたい。逃げられない。
過去の同胞と再会してからずっと抱えていたジレンマが、あの一投の矢に乱され、挙句「シカク」と呼ばれ……均衡を崩してしまった。
成瀬は、苦しかった。
ずっと苦しかった。
地獄の牢屋から逃げ延びたときでさえ。もしかしたら、きっと――お前なんか産まなければよかった――生を受けたときから、ずっと。
漠然とした恐怖が、消えたことはなかった。
「いったい何が起こるんだろうな」
「……さあな」
ここで誰が、何をしようというのか。
真実はいまだ闇の中。それも成瀬の恐怖を構成する一因にちがいなかった。
被疑者が不特定多数いるとなると、神雷の強みである情報網と行動力を駆使しても、1ヶ月弱では間に合わなかった。
例の矢文の一件で犯人がよほど達者である節があり、千間を始めとする警察にも助力を要請したが、それでも確たる証拠は得られずじまい。
「本当に武器商人だったら……」
勇気がその仮説に縋るのも仕方がなかった。
油断大敵な警備体制で、十分すぎるほど気合いが入っている。
何も起こらなければいい。繁華街のどこかに紛れているであろう女王を、二度も危険な目に遭わせたくない。
何か起きてしまった、そのときは。
神雷は、いつでも引き金を引く準備はできている。
街の十字架の端々に構成員の姿があった。いかめしい形相をした奴らは、周りのピンクな色めきから明らかに浮いていて見つけやすかった。
汰壱の姿はなかった。ありふれた西高の制服とはちがい、レアな白薔薇学園の制服で対処するわけにはいかないので、一旦たまり場に帰って変装してから来る予定だ。
有象無象の車両がエンジンをうならせながら、成瀬の目と鼻の先にある青信号の下を横切っていく。雲間に漏れる月明かりが、車のライトにみだりに打ち消される。
青信号が点滅する。なおも横断歩道を通行する人はあとを絶たない。青になる前から信号前の歩道で棒立ちの成瀬は、大衆に押しつぶされながら車の騒音とガスを浴び、どんどん顔色が悪くなる。
「あれって成瀬円?」
「やばっ」
「本物だ」
近くからこそこそと黄色い声が聞こえる。直接話しかけに来ないのは、隣に怖い顔した勇気がいるからだろう。
成瀬は酔ったように首を寝かせた。いやに動悸がする。
脳裏の犯行予告のそばに、きれいな金髪がかかった。
「どした、円?」
「いや……」
――プップー。
「ん?」
ふとクラクションが鳴り、成瀬と勇気は一様に目を向けた。
赤信号の車道の端に、1台の車が駐車する。高級感漂うシルバーのポルシェ。左ハンドルの運転席の車窓が自動で下がっていく。
「よう、円、勇気。学校帰りか?」
「誠一郎さん!? お、お疲れ様っす!」
不意打ちを食らった勇気の声が裏返る。
スモークガラスの奥から現れた風都は、仕事場とはちがい、きれいめに身だしなみを整えていた。
普段は無造作な髪は勇気みたいにうしろに流し、左眉の尾に引っかかるイナズマの傷痕がアクセサリーのように際立っている。仕事でも着ないジャケットとネクタイに身を飾り、最新モデルの高級車を楽々乗りこなしていた。
「なんで、監督がここに……」
今日は1日撮影なしの完全オフ。成瀬は若干の気まずさがあった。
「えっ、円くんいるの?」
助手席から高めの声音が飛んでくる。
「わ、ほんとだ。ひさしぶりね、円くん」
「さ、桜子さんまで……」
運転席側に少し身を乗り出し、開いた窓を上目遣いで覗いたのは、風都の妻である女優の桜子だった。
黒髪ロングにファーの上着を羽織り、以前成瀬が白園学園に潜入したときと似通った恰好をしていた。
国民のマドンナと尊称されるだけあり、車の小窓からでも甘美な色が漏れ出て、辺りがざわめいている。
勇気までどきまぎしながら尋ねた。
「ご夫婦そろってこんなとこで何してんすか?」
「今日は結婚記念日なの」
「あ、そういや汰壱がそんなこと言ってたな……」
「うふふ。娘の由楽がスキー合宿中でふたりだけだから、せっかくだしディナーデートをしようってね」
「お前らは?」
勇気は一度成瀬と顔を見合わせ、声量を落として話した。
「この間の撮影のとき、たまり場でひと騒動あったじゃないっすか。その件でちょっと」
ここでも前みたいなことが起こるおそれがあるから、ディナーに行くなら早めに移動することを勧めると、桜子は愁眉になり、風都はうなずきながら背もたれに後頭部を倒した。
「なるほど。それで最近、円の調子が悪かったのか」
「円くん体調不良なの? 大丈夫?」
「体調というより、昔に戻ったみたいな感じかな。せっかくいい表情するようになったのに、あれ以来また見せなくなっちまったんだよな」
昨日までほぼ休みなしに続いたドラマ撮影。神雷のたまり場で紛れもなく成瀬がやってのけた満点の演技はどこへやら、再び及第点に低迷していた。
撮影はあと片手で数えられるほどでオールアップしてしまうこともあり、このままでいいのかと監督を筆頭とするスタッフの頭を悩ませていた。
「その調子じゃまだ解決には時間がかかりそうか」
「……監督のせいっすよ」
ボソッ、と独白が落っこちる。
成瀬は気まずさの根本にある要因を悟っていた。それが、自身のなけなしの演技力を貶めているであろうことも。
「監督はなんで、俺を神雷に行かせたんすか」
「だからそれはいずれ……」
「俺は……いやだった。会いたくなかったんすよ!」
風都の常套句が、成瀬の情緒を泡立てた。
「あんたがあんなとこ教えなきゃ、俺は今ごろふつうに生きて、ふつうに暮らしていられた。何も知らないままでよかったのに。あんたがよけいなことしなきゃ……っ」
寒さで唇が青ざめていく。
成瀬の隣で、勇気はつり目がちな瞳をかすかに見開いていた。丸くなる瞳の表面に、心配の色が濃淡激しく広がった。
「一度引き合わされちまったら、離れられなくなっちまう。心配で、不安で、怖くて、苦しくて……いたくて……すんげえ痛くて……」
「え、円……?」
「……なんかもう……おかしくなっちまう」
はあ、と成瀬はかすれ気味に息を吐き捨てた。
戸惑いをあらわにする勇気に対して、風都の眼差しは芯を持って成瀬に注がれ続ける。
「監督は俺とあいつの関係を知ってたんでしょ?」
「ああ、知ってたよ」
「じゃあどうして!」
成瀬は思わず車の窓枠に手をかける。野次馬のノイズが大きくなっていく。それでもかまわずに、毅然とした風都の顔に心の内をぶちまけた。
「もう二度と会わないって決めてたのに。あいつにだけは、会っちゃいけなかったのに……っ」
会ってしまったら、こんな気持ちになるだろうことは、なんとなくわかっていた。
だからいやだったのだ。
過去を過去にできなくなる。
ふつうに生きていけなくなる。
傷口から真っ赤な血があふれかえってしまう。
自分の傷は、彼女の傷で。
彼女の傷は、自分の傷でもあるから。
出会ってしまえば、何もなかったふりなんてできるはずがないのだ。
これが、成瀬なりのSOSだった。