Q. ―純真な刃―
「ねえ、円くん」
ふわりと木漏れ日が射すように声がかかった。
桜子が大人の顔つきで成瀬を捉えていた。母のような包容力と、先生のような凛々しさをまとっている。
「私にはよくわからないけれど……でもね? きっとその気持ちは、とても大切なものだと思うの」
「大切……? これが?」
「そう、きっとね。円くんにとって必要な気持ちなはずよ」
――あなたに必要なことだと言われたのよ。そして私も結果的に賛同した、それだけのことよ。
女王が高潔な薔薇だとしたら、彼女は名前のとおり、儚くてやさしい桜なのだろう。
成瀬は芽をつぶすように拳を握りしめた。
「……俺に必要なもんって、なんすか」
もどかしげにうつむく。もう影も見えない。固く瞼を瞑った。
「俺は……俺は、今までのままでよかった。ふつうに学校行って、ふつうに仕事して、そうやってテキトーにやり過ごしていければそれで……」
「本当に?」
風都の重厚な低音に、胸を突かれた。反射で成瀬は瞼を押し開く。
「ふつうに生きていけたと、本当に思ってるのか?」
「……何……」
「俺には、いつも、お前が生きているようには見えなかったよ」
空っぽだったよ。
そうとも言われている気がした。
正論以外の何物でもなく、成瀬は喉を引きつらせる。乾いた笑いが出て、車から手を離した。落ちていく肩を、隣で沈黙していた勇気がガシッと支えた。
「こいつ、最近は生命力バリバリ出してましたよ!」
「は……?」
「いや、は?じゃなくて」
呆ける成瀬の腹に、かすめるだけのパンチをかます。
「な、なんだよ……いいよ、そういうの」
「んだよ、人が庇ってやったのに」
「だからいいって」
「実際、当たってるだろ?」
成瀬の揺れる瞳孔を下から覗きこみ、勇気はニヤリと頬を高めた。
「神雷に居たくて居んじゃんお前。楽しいだろ、あそこは」
成瀬は何も言えない。
つられて風都がフッと笑みをこぼした。
「うん、俺も撮影で気づいてた。最近の円は、生き生きしててイイ表情してたな」
「……いや、俺は……」
「俺の判断は間違ってなかったと思ってるよ」
なあ、円。円くん。
と、風都に続いて桜子も同意の意をこめて呼びかける。
成瀬の肩から外れていく勇気の強引な腕が、成瀬の冷えた背中をさすった。
風都は桜子と一瞬視線を交差させたあと、ゆっくりと円のほうを見上げた。
「大丈夫だよ、円」
「なに……何が、大丈夫なんだよ……」
「円」
「……」
「お前は誰だ」
「え?」
撮影現場でよく言われる問いかけに、成瀬は生唾を飲み込んだ。
「お、俺は……俺、だけど」
「ああ、そうだ。成瀬円、だろう?」
眉をしかめる成瀬に、風都は監督らしい明朗な声色で告げた。
「もっと自信を持っていいんだ」
「……」
なんて無責任なんだろう。
成瀬はそう思いながらも、胸のチクチクした痛みがひとつずつ抜け落ちていく感覚を受け取った。
適した返事が思い浮かばず、かといって肯定もできず黙りこめば、美男美女の夫婦そろって美しく微笑み合う。
「じゃあ私たちはそろそろ行くわね。またね、円くん。体調には気をつけて」
「また明日、撮影でな。勇気もがんばれよ」
エンジン音が燃え立つ。
成瀬は手を振ろうか迷ったが、その間に窓ガラスに隔てられふたりの顔が見えなくなった。
信号がタイミングよく青緑に光った。洗練されたフォルムのポルシェが、なめらかに走り出す。
交差点を踏み越え、1台のタクシーとすれちがう。
遠ざかるにつれ、成瀬はやっぱり手くらい振っておけばよかったと無性に後悔した。
目の前をタクシーが通り過ぎていく。
タクシーの後部座席に、ブロンドの髪が揺れていた。
まるですべてが映画のワンシーンのようだった。
「――っ停めて!!!」
過ぎたタクシーの中から突然、うっすらと絶叫の名残がこだました。
刹那、その反対の方向でクラクションとブレーキ音がひしめいた。連鎖して甲高い悲鳴が打ち上がる。
混乱の中心にあるのは、腰が抜けたように蛇行する4人乗りの高級車。磨き上げられたシルバーの外装は、間違いようもなく、風都の運転する車だった。
前輪のタイヤの動きが酔っ払ったようによろめいていた。ハンドルが思うように利かず、歩道のほうへ突進していく。
一斉に叫びながら避難する一般客をかわし、ポルシェは無理やり軌道を変えた。
「……だめだ」
軌道の先を見て、成瀬は声を上げた。
「そっちに行っちゃだめだ監督っ……!!」
――キキキィ……ッガ、グシャァ……ッ!!!
辺り一帯を蝕むひしゃげた異音が、やがて息苦しい無音を誘う。
交差点周辺に居合わせた全員が、その光景を目の当たりにして凍りついた。
交差点の奥。
スプレーの落書きの目立つ電柱。
そこに衝突した、ポルシェの無惨な有り様を。
「……かん、とく……?」
成瀬の目に、体内を構成する水分が集まる。
ポルシェから漂う黒煙が、風に乗って遠くまで運ばれてきたのか。いいやそんなわけがない、そうとわかっていても、鼻の奥を抜ける鈍痛を理解したくなくて、成瀬は目を塞いだ。
勇気が震えておぼつかない手で、なんとか119番をかける。
その近辺で急ブレーキをかけたタクシーから、後部座席に乗っていた客が一名、取り乱した様子で降りてきた。
金色の巻き髪を下ろし、純白のケープをまとった少女、姫華だ。
彼女はすぐさま事故現場に駆け寄ろうとしたが、ヒールの付いた足をすくませた。
つぶれたボンネット。
剥げた塗装。
粉々のフロントガラス。
タイヤのひとつは溶けたように地面にへばりつき、正常に稼働したエアバッグには絵の具のような血痕が飛び散っている。
助手席に回された太い腕はぐにゃりと折れ曲がり、結婚記念日のためにこしらえたドレスコードは血塗れに濡れていた。
遠目からでも、乗車していたふたりのきれいな顔に、曇ったガラスの破片が突き刺さっているのが確認できた。
半歩だけ踏み出したヒールの靴に、小石のような無機物がカランと金属音を立てて当たった。
わなつく呼吸をどうにか殺しながら、姫華は曇った空の上に隠れているであろう月の方角を仰ぐ。その鋭利な双眸には、鈍い血の色がにじんでいた。
『令月の頭、夜の街の十字架を拝み待たれよ』
まさか、あの怪文書に従った結果が、これだというのか。
(……あぁ、ちがう、そうだ、撮影だこれ)
そう思いついた成瀬は、おそるおそる視界をこじ開けた。
身体にしみついた習慣でカメラを探す。
ドラマ最終回の番宣のために、内緒でドッキリが仕組まれていたのかもしれない。
でなければ、こんな事故、おかしい。ありえない。嘘に決まっている。
監督も性格が悪いな、と半ば無理やり笑みをつくり、辺りを見渡す。スマホやデジカメ、監視カメラはいたるところにあるのに、それらしいカメラは見当たらない。
(カメラ……ない……どこにもない……ない、ない……な……)
何気なく眺めた、横断歩道を渡った向こう岸。
いっそう人口密度の高まる雑踏の中、ビルとビルの間に押しこまれるようにしてたたずむ、地縛霊かのような人影があった。
成瀬は無意識のうちに目を凝らしていた。
ビル影に紛れ、全身黒ずくめにフードまでかぶった姿が、やけにはっきりと見て取れた。
ザアッと木々を巻き込んで突風が吹き抜ける。向かいのフードが攫われる。
フードの内側から深い金色がこぼれ落ちた。
あの事故を前にしてフードを気にする余裕もなく、せめて押さえるのは逸る心臓のほうだった。
重く振動する手の爪は、ポルシェから漏れる鮮血と同じ――赤色。
金色を垂らしながら、不可抗力にもあらわになった顔で相対する成瀬を捉えたのは、新道寺緋、その人だった。