水鏡~すいきょう~
第1章 プロローグ
都内某所の古びた雑居ビルにある編集社の1室。
まだ誰もいない事務所のデスクの一つ。
書類が山積みになった机に、長い足を投げ出し眠る人物が居る。
名前は日下部冬夜。
寝顔だけで容易に容姿の美しさが分かる程、整った顔立ちをしている。
しばらく帰宅していないのか、ヨレヨレの衣類から疲労感が伺える。
時刻は8:00ちょうど。
その頃、ビルの廊下に髪の毛をショートカットして、スラリと伸びた手足。
165cm位の身長に似合うベージュのパンツスーツを身にまとった荻野遙が歩いていた。
すると、遙に続いて身長が遙くらいの身長が小さな、見た感じ「少年っぽさ」が残る野田幸太が走り寄る。
「先輩!」
成人にしては高い声が遙を呼び止める。
事務所のドアの鍵を開けようと、ドアノブに鍵を差し込んだ遙はその声に振り返る。
「先輩!僕、納得いきません!」
幸太の声に遙は溜息を着いた。
「幸太、その話はもう終わっただろう!」
遙は幸太から視線を外して鍵を開けると、冷たく言い放つ。
幸太は遙の語尾の冷たさに「ぐっ」と息を飲むが、意を決して事務所に入る遙の前に立ちはだかった。
「何でですか‍?冬夜さんは良くて、何で僕は同行させて貰えないんですか!」
「今回の取材は危ないからダメだ」
「危ないなら、先輩じゃなくて僕が行くへまきなんじゃないんですか!」
「幸太は記事が書けないだろう!」
2人が言い争う声が事務所内に響き渡る。
「ふぁぁぁ~」
言い争う2人が睨み合った瞬間、奥のデスクからアクビが聞こえた。
遙が声の方を向くと、ムクっと寝起きの冬夜が顔を出す。
「朝っぱらからキャンキャンうるせえ~な」
唸るように呟く冬夜に、遙が慌てて近付く。
「冬夜!お前、又、此処に泊まったのか‍?」
叫ぶ遙に、冬夜は
「締切、間に合わねぇ~からな」
そう言ってアクビをしながら立ち上がった。
窓辺で大きく伸びをする冬夜を、遙は眩しく見つめる。
朝日が照らす横顔は、鼻筋の通った綺麗な冬夜の輪郭を浮き彫りにして、まるで何かの写真集の一コマのようだと思いながら遥は見つめていた。
ドキドキと高鳴る胸を押さえ、いつまで『友達』という関係を続けていられるのだろうかと、何度も胸に湧き上がる不安を拭えずに居た。
冬夜は美しい容姿と、178cmの身長に鍛えられたモデルのようなスタイルで女性が途切れた事が無い。
いつも違う、綺麗な女性と歩いているのを見る度に苦しくなる。
そう。
自分とは正反対の、女を武器にした女。
まるで幼い自分と父親を捨てた、あの女のような女性…。
(やはり...、男はみんなああいう女性が好きなんだろうな)
遙がぼんやりと考えていると
「幸太、コーヒー」
冬夜が振り向いて呟いた。
すると幸太は顔を歪ませて
「はぁ‍?何で僕が、冬夜さんなんかにコーヒー煎れなくちゃならないんですか!」
そう言い返す。
すると冬夜は
「はぁ‍?まともに仕事が出来ない奴がやれる事って、それ位だろうが」
当たり前のように答え、事務所内にある打ち合わせスペースの3人がけソファーに音を立てて座る。
「寝み~」
アクビしながらウトウトしている冬夜の視線と、遙の視線が一瞬合う。
ドキッと高鳴る胸。
カァ~っと顔が熱くなる感覚に
「あ...じゃあ、私が入れて来るよ」
遙は慌てて視線を反らした。
冬夜の漆黒の瞳に、目が合う度に心臓が飛び出しそうな程にドキドキしてしまう。
慌てて給湯室に駆け込む遙に
「遙先輩、良いですよ。どーせ仕事がろくに出来ない僕が入れますから」
幸太が、冬夜に嫌味たっぷりで叫ぶ。
冬夜は幸太の嫌味に気付かないのか、遙が持ってきた新聞を手に読み始めた。
幸太が冬夜にキツく当たる理由が自分にあると遙は分かっている。
幸太の気持ちが自分にあるのを知っていて、「幼馴染み」という言葉で幸太の気持ちを言わせないようにしている自分のズルさに苦しくなる。

(幸太は私だ...)

近くて遠い人。
手を伸ばせば触れられる距離に居るのに、決して触れられない相手。
何度、あの背中にしがみつきたかっただろうか?
何度、あの大きな手で触れて欲しいと願っただろうか‍?
何度、あの広い胸に抱き締められたいと願っただろうか‍?
決して叶わない、愚かな願い。
遙は瞳を閉じて溜息を吐く。
すると、ふわりと鼻腔にコーヒーの香りが触れる。
ゆっくりと瞳を開けると、幸太がトレーにコーヒーカップを乗せていた。
「先輩、コーヒー入りましたよ」
幸太のクルクル変わる表情が笑顔に変わる。
子リスのように可愛い顔をした、弟のような存在の幸太の笑顔に何度救われただろう。
無邪気で可愛い二つ年下の幼馴染の幸太。
子供の頃は泣き虫で、いつも遙がいじめっ子達から守っていた。
「は~たん」
は~ちゃんと言えなくて、いつも自分を「は~たん」と呼んで背中を追い掛けて来た幼馴染みは、今でも変わらず自分を追い掛けてくれている。
それが嬉しくもあり、時々苦しくなる。
「私も本当に...ズルイな」
ポツリと呟いた言葉にハッとした。
その瞬間、目の前に遙のマグカップを差し出される。
「はい。少しお疲れ様気味みたいなので、今日はお砂糖を少し入れときました」
幸太の笑顔に、遙もつられてコーヒーを笑顔で受け取る。
「ありがとう」
遙の言葉に、幸太は子犬のように嬉しそうに破顔して笑う。
遙は普段、コーヒーはミルクしか入れない。
だが、疲れた時や頭を使いすぎた時は少しだけ砂糖を入れるのだ。
そんな小さな変化も、幸太は決して見逃さない。
「はい、これは冬夜さんのです!」
音を立てて冬夜のカップを幸太が置いた。
冬夜は新聞に目を向けたまま
「サンキュー」
とだけ答えてコーヒーを口に運んだその瞬間、『ブッ』っとコーヒーを吐き出した。
「ちょっ!冬夜、何してんのよ!」
遙が慌てタオルを渡すと
「ふざけんな!」
と、冬夜が叫ぶ。
すると幸太は無視して
「何がですか‍?」
と答えPCを立ち上げた。
その幸太の態度を見て
「俺が気に入らないなら気に入らないで結構だけどな。
コーヒー1杯まともに入れられないで、何しに此処に来てんだよ!
仕事と私情を分けられないなら、とっとと辞めろ!」
冬夜は叫ぶと、ジャケットを掴んでドアへと歩き出す。
「冬夜、何処に行くの‍?」
叫んだ遙に
「缶コーヒー買ってくんだよ。
こんなクソ不味いコーヒー入れられるんなら、2度と此処のコーヒーは飲まねぇよ!」
と、振り向きもせずに叫ぶと、ドアを荒々しく閉めて出て行ってしまった。
遙は冬夜のカップに口を付けると、激甘コーヒーに思わず幸太の顔を見た。
幸太は泣きそうな顔をして、黙って遙を見つめている。
「これ、どういう事‍?
冬夜が甘い物、嫌いなの知ってるよね‍?」
遙は静かに尋ねた。
幸太はそんな遙に俯くと
「だって...」
とだけ答えて沈黙する。
遙は溜息を吐くと
「幸太、ちょっとこっちに座りなさい」
自分のデスク前の椅子に座らせ、遙はデスクに腰掛けた。
おずおずと移動する幸太に
「幸太、あんたが嫌ってる冬夜。
あいつが1番、幸太を買ってるんだよ」
そう呟いた。
しかし、遥の言葉に真っ赤な顔をして
「嘘だ!冬夜さん、いつも僕に雑用ばっかりやらせて...。
僕の事、いつもいつも『僕ちゃん』って呼ぶんですよ!」
と、幸太が叫んだ。
遙は深い溜息を吐いてから
「口止めされてたんだけどね…」
そう言って1枚の書類を出して幸太に手渡した。
内容は、今回の取材に関して幸太の同行許可申請書だった。
「これ...」
遙に幸太が笑顔を向けると
「喜ぶ前に、申請者の名前をちゃんと見て」
と、遙がピシャリと言う。
幸太が疑問に思いながら視線を落とすと、そこには『申請者:日下部冬夜』と書かれていた。
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