エリート御曹司は獣でした
文句を叫んでいる暇はなかった。

久瀬さんが「うっ」と呻いて変身し始めたので、私は彼の手を引いてマンションと隣の建物の間の、人ひとり分の幅しかない細い隙間に駆け込んだ。


足元にはペットボトルや煙草の吸殻などのゴミが散乱しており、壁も薄汚れているが、服が汚れる心配などしていられない。

通りから見られそうにない中程まで進むと、久瀬さんの手を離して向かい合う。


片手で目元を押さえる彼は苦しげな声を絞り出し、「変わるな……」と変身に抗おうとしていた。

けれども願い虚しく、呼吸の乱れがピタリと収まれば、いつものように狼化してしまう。


「お前か。また俺に襲われに来たんだな?」


そう言って蠱惑的に前髪をかき上げ、ニヤリとした彼と対峙しながら、私は冷静に腕時計を確認する。

先週の治療では、初めて変身時間が一分を切り、ふたりで祝杯をあげた。

今日は五十秒……いや、三十秒を切るつもりで、強気にいかせてもらいます。

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