羊かぶり☆ベイベー
掛けられた声は、聞き慣れた吾妻さんのものだった。
聞き間違えることはまず有り得ない、人情味溢れた、吾妻さんの温かい声。
その上、そんな声で今、私の名前を呼ばれたら。
視界が滲む。
嗚咽まで漏れそうになるのは、自分でも予想外で、必死に押さえ付ける。
いい歳にもなって、こんなことで感情を露にして、泣き出すなんて。
なんて、情けない。
涙目になっているのを覚られたくなくて、聞こえないふりをする。
そんな私に、吾妻さんは不思議そうにして、また名前を呼んだ。
そして、より距離が縮まったらしく、間接的に体温が伝わるのを感じる。
きっと吾妻さんのことだ。
きっとこのまま、放って置いてなんてくれないのだろう。
案の定、手首をそっと掴まれ、そのまま引かれた。
「こっちにおいで」
私の足は引かれるまま、歩き出す。
行き先は分からないが、もうどこへでも良かった。
いつもなら、逃げる、その行為に後で後悔していた。
自責の念にかられて、だから、自分を変えたいと思った。
だけど。
今回だけは、このような選択をしたとしても、悪くないと思う。
つい先程までは目の前が、真っ暗になって、恐怖の中に居た筈なのに、何かにしがみつくことすら忘れていた私。
今、私の手を包み込んでいる、この人の骨太の大きな手があるだけで、涙が出る程に安心している。
ここではじめて、視線を上げた。
斜め後ろから見た、浴衣姿の吾妻さんの表情は至って冷静で。
私はこれから、どこに連れていかれるのだろう。
安堵からか、確かに滲んでいた瞳は、ひとまず落ち着いていた。