羊かぶり☆ベイベー



掛けられた声は、聞き慣れた吾妻さんのものだった。

聞き間違えることはまず有り得ない、人情味溢れた、吾妻さんの温かい声。

その上、そんな声で今、私の名前を呼ばれたら。

視界が滲む。

嗚咽まで漏れそうになるのは、自分でも予想外で、必死に押さえ付ける。

いい歳にもなって、こんなことで感情を露にして、泣き出すなんて。

なんて、情けない。

涙目になっているのを覚られたくなくて、聞こえないふりをする。

そんな私に、吾妻さんは不思議そうにして、また名前を呼んだ。

そして、より距離が縮まったらしく、間接的に体温が伝わるのを感じる。

きっと吾妻さんのことだ。

きっとこのまま、放って置いてなんてくれないのだろう。

案の定、手首をそっと掴まれ、そのまま引かれた。



「こっちにおいで」



私の足は引かれるまま、歩き出す。

行き先は分からないが、もうどこへでも良かった。

いつもなら、逃げる、その行為に後で後悔していた。

自責の念にかられて、だから、自分を変えたいと思った。

だけど。

今回だけは、このような選択をしたとしても、悪くないと思う。

つい先程までは目の前が、真っ暗になって、恐怖の中に居た筈なのに、何かにしがみつくことすら忘れていた私。

今、私の手を包み込んでいる、この人の骨太の大きな手があるだけで、涙が出る程に安心している。

ここではじめて、視線を上げた。

斜め後ろから見た、浴衣姿の吾妻さんの表情は至って冷静で。

私はこれから、どこに連れていかれるのだろう。

安堵からか、確かに滲んでいた瞳は、ひとまず落ち着いていた。


< 154 / 252 >

この作品をシェア

pagetop