氷雨逆巻く天つ風の夜に【完】
その男は背が高く無表情で、切れ長の三白眼は何の感情の色も浮かんでいなかった。

結界が働いているぎりぎりの位置に佇み、両手をだらりと下げたまま微動だにしない。

朔は伊能の肩をぽんと叩いて泉へ向かうように言うと、氷雨と目で合図をした。


「俺がやる。お前は朧を守れ」


「了解」


伊能は足早に泉へ向かった。

この赤子が鬼頭の者を惑わす原因となり、ひいては陰ながら見守っていた氷雨と朧の夫婦生活にも多大な影響を及ぼした。

暗殺業は請け負っていないが、それでも密かにこの手で殺めることができたならば…と考えたことは何度もある。

だが望は今や何の害意もない赤子に見えたものの、伊能は油断なく怜悧な目を望むから離すことなく、泉の中にゆっくり入った。


「これで何かが変わればいいが…」


この泉には妖は近寄らない。

唯一泉に入れる者として中へ入った伊能は、水が身体に触れた瞬間――望がぱっちり目を見開いて口が開いたのを見た。

額の中心には本来角が生えていたが今やその部分は少し陥没したようなへこみがあるだけだったが、その痕跡はすうっと消えてなくなった。


「主さま!角が完全に消えました!」


「そうか、よし」


朔は代々伝わってきた天叢雲を抜かないまま無造作に望の父に歩み寄った。

男はさすがにぴくりと身体を動かしたものの――視線を朔に定めたまま動かず、銀が音を立てず朔の後方に立ってふさふさの尻尾を揺らしていた。


「俺たちの周囲をずっとうろついていたのはお前だな」


「…如何にも」


「で?望に会いに来たんだろう?」


「…望?ふっ、名など与える必要もない」


男からじわりと殺気が滲み出た。

誰もが身構えた。

誰かを――何かを守るために。
< 222 / 281 >

この作品をシェア

pagetop