氷雨逆巻く天つ風の夜に【完】
宿屋は鬼陸奥で一番大きな建物で、珍しい二階建て以上だったため、朧は暖簾を潜る前から興奮して氷雨の袖を引っ張り回していた。


「おっ、お師匠様!すごいです!」


「多分一番上の一番いい部屋だと思うぜ。前に泊まったことあるけど、すっげえ広いぞ」


暖簾を潜るとすぐさま番頭が近付いて来て深々と頭を下げると、氷雨に親しげに笑いかけた。


「お久しぶりでございます。天満様にはもうお会いしましたか?」


ふたりの会話に耳を傾けつつも、宿泊している客たちは皆どこか気品があり、氷雨にぴったり張り付いていると、客たちもまたあまりにも目立つ氷雨と朧に足を止めてじっと見てきたため、番頭は階段を指して誘導した。


「いつものお部屋をご用意しております。あと天満様に言付かっておりましたあれも…」


「おー、それ俺が天満に頼んでおいたんだ。後で持って来てくれ」


「?お師匠様…何をですか?」


「いいからいいから」


階段をゆっくり上がり、上層へ行く度に客の数も少なくなっていた。

どうやら上層へ行けば行くほど宿泊代が高いらしく、最上階に着くと完全に人気が途絶えた。

番頭が何事か氷雨に声をかけて階段を降りていくと、氷雨は朧の手を引いて部屋に入り、数十畳ある広さに思わず大きな声を上げた。


「すごーい!」


「ふたりで泊まるには広すぎるけど、まあ遠出した時位はいいよな」


小窓を開けると鬼陸奥の繁華街の喧噪が聞こえてきて、人の行き来がはっきりと見えた。

幽玄町もかなり広いがあそこは朧にとって庭のようなもので、こういった知らない地の繁華街をゆっくり見て回ったことなどない。


「夢みたい」


「これ予行練習だからな。何日もらえるか分かんねえけど、新婚旅行はいろんな集落に泊まろう」


感激のあまり抱き着いてきた朧の頭をよしよしと撫でて、ふたりで飽きもせず小窓から外を眺めた。
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