一目惚れの彼女は人の妻
 私はうかつにも、その痴漢男に見惚れてしまった。だって、駅で少し離れた所から見た時もそう思ったけど、間近で見る彼は、更に可愛いんだもの。

 とても痴漢には見えないわ……って、何考えてるの、私!

 現に私は胸を触られた訳で、"ごめんなさい"と言って頭を下げたのは、計算の上の事なのだと思う。実際のところ、私はこの男を責める気持ちはなかったのだし。

 そう言えば、加奈子が"あんたは胸が大きいんだから、痴漢に気を付けないと"って言ったけど、本当にそうなってしまったみたい。

「ち……」

 頭に来て、"痴漢!"と言ってやろうと思ったけど、寸前でやめてしまった。

 なぜなら、故意に触ったのではない、という可能性が、限りなくゼロに近いとしてもゼロではないし、恥ずかしいから騒ぎを起こしたくない、という事なかれ主義のためだ。

 本当は騒ぎにすべきとは思うんだけど。痴漢撲滅のために。私って、ダメだなあ、なんて思っていたら、充さんが、

「宏美」

 と私を呼ぶ声がして、私はすかさず、

「あなた!」

 と言っていた。"宏美"に続くはずの"ちゃん"を、充さんに言わせないために。
 私は充さんに向かいながら、ウインクをした。"私に合わせてください!"という念を込めて。

 すると、頭の良い充さんは、私の意図を察してくれたみたいで、

「気に入ったお花はあったの?」

「ああ。これなんかどうかな?」

「まあ、素敵。帰ったらすぐお庭に植えましょう?」

 なんて、いかにも夫婦っぼい会話に合わせてくれた。

「シュン君」

 と呼ぶ若い女性の声が聞こえ、後ろを振り向くと、少し気が強そうではあるけれど、若くて可愛らしい女性が、痴漢男の腕にしなだれ掛かるのが見えた。

 彼女がいるんだ?

 痴漢のくせに彼女がいて、彼女がいるのに他の女に触りたがる痴漢男に、私はものすごく腹が立ち、つい「チッ」と舌打ちをしてしまった。

 自分の胸を触られた事より、"シュン君"と言うらしい痴漢男に彼女がいる事に、私は腹が立ってしょうがなかったんだ、と思う。
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