バレンタイン・ストーリーズ
青磁がパレットや絵の具を用意したあと、ふいに立ち上がって準備室へと入っていった。

何をしてるんだろう、と目で追っていると、彼はノートくらいのサイズの小さなキャンバスを手に戻ってきた。

今度はずいぶん小さい絵を描くんだな、と思っていたら、青磁はそれをなぜか「ん」と私に差し出してくる。

「え……? なに?」

戸惑って彼の顔を見上げると、いつも通りの平然とした表情で、

「やる」

と短く返ってくる。
それから彼は、私の手を取って裏返しのキャンバスをのせた。

「え? これを私にくれるってこと?」
「そうだよ」

軽く頷いて、青磁はいつもの作業に戻って絵の具をパレットに搾り出し始めた。
私は首を傾げつつキャンバスを表に向ける。

そこには、水滴をまとった鮮やかな深紅のバラの花が描かれていた。

朝焼けのような水色とピンクの入り交じった淡い色合いの背景の中、左端にはバラの花が一本、そして右側には花束。
花束は、数えきれないほどたくさんのバラの花がぎゅっと集まっていた。

「……バラ」

私は思わずひとりごちた。

どの花も、まるで本物みたいにつやめき、生き生きとして見えて、そして、一枚一枚の花びらについた雫が、朝焼け色を映して、宝石みたいに輝いている。

すごく綺麗だ。

でも。
すごく綺麗なんだけど、突然の青磁の行動が理解できない。

「えー……と、なにこれ、どういうこと?」

私は戸惑いながら彼の顔色を窺った。

青磁はいつも空の絵ばかり描いている。
花の絵を描いたのなんて初めて見た。

どういう心境の変化なんだろう、と怪訝に思っていると、青磁は私よりもっと怪訝そうな顔でこちらを見た。

「は? お前、まさか、今日が何の日か知らねえの?」
「えっ、何の日って……バレンタイン?」
「そうだよ」

彼はどこか呆れたように肩をすくめる。

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