【完】絶えうるなら、琥珀の隙間
「そなたは、私が戻るなと言ったにも関わらず、唐突に国に戻るなどと言い出し」

言いながら一歩一歩近づいてくる翠に、カヤは無意識に後ずさりしていた。

「私が朝まで大人しくしていろと言ったにも関わらず、崖にしがみ付くような真似をしてまで弥依彦の寝室に潜り込み」

こわ、こわいこわいこわい。
怖すぎる。

「そして、あろうことか手籠めにされようとしていたと?」

どん、と背中に感じたのは冷たい岩肌。
カヤの背後には、もう逃げるだけの空間は無かった。

「そういう事だろうか?」

にっこり笑顔の翠が、カヤの真ん前で仁王立ちしていた。

翠から溢れ出てくる怒りが強烈すぎて、音でも聞こえてきそうな勢いだ。


地べたに座り込むるカヤは、出来るだけ小さく縮こまりながら、恐る恐る言葉を吐いた。

「す、翠様、立ち上がっても大丈夫なのですか……?」

「私の質問に答えろ」

「そういう事です」

逆らってはいけない。
本能でそう悟り、即座にカヤは答えた。

すると翠はにっこり笑顔を崩さないまま、何故かゆうるりとタケルを振り返った。

酷い事にも、何かを察知したらしきタケルは、早々に安全地帯に避難していた。

先ほどよりも随分遠くに居るタケルに、翠が穏やかに声を掛ける。

「タケル、すまないが新しい水を汲んで来てはくれぬか?遠くまで」

「と、遠くまで……ですか?」

強調されたようなその言葉を拾ったタケルに、翠は「ああ」と頷く。

「私はこの手に負えぬ世話役に灸を据えてやらねば」

だからしばらく帰って来るな、と。
暗にそう言った翠に、タケルはもう何も言わなかった。

ただ恐ろしい事に、酷く同情したような眼をカヤに向け、足早に洞窟を出て行った。
置いていかないで!と叫びたくなったし、何よりもタケルの哀れむ眼が大変に気がかりであった。


(そ、その眼の意味は……!?)

満足に考える暇も無く、翠が再びカヤに向き直る。
上から燦々と降って来る圧力が重すぎて、カヤは顔を上げられなかった。

「弁解があるなら聞いてやらない事も無いが」

二人きりだと言うのに、翠は『翠様』を崩さない。

「……ございません」

語尾が震えた。

心臓が嫌な音を立てている。
翠がこれほどまで明確にカヤに怒りを向けた事など、勿論初めてだった。

「私の言う事をこれほどまでに聴かぬのは、国中どこを探してもそなたぐらいだぞ」

まどろっこしい物言いをする、と感じた。

これは明らかに『翠様』の怒り方だった。膳の時と似ている。
しかし今、翠はあの時とは比べ物にならないほど怒っているようだった。


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