【完】絶えうるなら、琥珀の隙間
「俺は、カヤの両親やミズノエに会った事は無いけど……手向けるなら、なんとなくこの花が良いような気がしたんだ」
はっ、と息を呑んだ。
ようやく翠がカヤを夜の散歩に連れ出した意味が分かったのだ。
翠は、三人を弔おうとしてくれている。
「そのために、今日……?」
驚き、眼を見開きながら問いかける。
「うん。さすがに川は遠すぎるから、この湖にさせて貰ったけど……ごめんな、今頃で。タケルが居ない日を見計らってたら随分遅くなっちまった」
カヤは勢いよく首を横に振った。
目が回るほど忙しいだろうに、まさかこんな事を考えてくれていたなんて予想もしていなかった。
「本当にありがとう……三人の事、ちゃんと弔えてなかったの……」
墓はおろか、遺体に向かって手を合わせる事すら出来なかった。
もうきっと、血も皮膚も、骨さえも形を残していないだろう。
本当に三人が存在していたのかさえ、分からなくなってしまうほどに。
それでもこうしてカヤ以外にも、あの人達を記憶に残してくれる人が居る。
(それがどれだけ嬉しいかなんて……)
伝えきれるはずも無いけど、大声で叫び出したくなってしまうのだ。
じわり、と世界が滲んだ。
少し湿った眼尻をこっそり拭うと、翠が後頭部をぽんぽん、と二度撫でてくれた。
「ほら、流そう」
「うん」
促され、カヤは雪中花を受け取り、湖を見つめた。
どこまでも続く水の地面は、優しくたおやかに揺らいでいる。
宵空と湖の色が混ざり合っていて、境界線は良く分からない。
カヤは雪中花を、そっと水面に浮かべた。
ゆらゆらと揺れながら、三輪の花は身を寄せ合うようにして岸から離れて行く。
それを見つめていると、不意に翠が言った。
「カヤ。一緒に言霊を唱えようか」
「え?でも、力も何も無いよ、私……」
驚くカヤに、けれども翠は柔和に微笑む。
「力なんて関係ない。気持ちが籠ってればそれで十分だ」
その言葉に、カヤはおずおずと頷いた。
翠は水面に向き直ると、眼を閉じて手を合わせた。
「俺の言葉に続けてな」
花は、もう手の届かないところまで行ってしまっていた。
カヤもまた、翠を真似て静かに目を閉じた。
「山眠り、跡無く寒光に散る御霊よ」
暗闇の中、翠の紡ぐ声が、鼓膜を揺り動かしてくる。
目を閉じているせいか、普段よりも輪郭がはっきりとして聞こえた。
「や、山眠り…あとなく、かんこうに散る御霊よ……?」
翠の唱えをそのまま口にした。
口馴染みのない言葉達は、たどたどしくつっかえてしまう。
「瑟瑟と大悲の雪落つる、されど我が心地に色変えぬ松ありけり」
「しつしつと、だいひの雪落つる……されど我が心地に、色変えぬ松ありけり」
翠のようにつらつらと言霊を落とせるわけでは無い。
きっと歪で不格好だ。
それでも、錯覚してしまう。
不思議だった。
形を成さない音が水面を走り抜けて、勢い付いたまま上昇して、分厚い雲を突き破って。
そうして、カヤの知らない、とても綺麗な場所に辿り着く。
「春風の吹くこと待つなかれ。蝶の眠りは安らかなり」
この祈りを、きっと三人は見つけ出して、笑ってくれる。
そんな気がしてならないのだ。
「春風の吹くこと待つなかれ。蝶の眠りは安らかなり」
言葉は美しい。
そんなことを産まれて初めて知った。
カヤは、そっと目を開けた。
花はもう随分と遠くまで流れてしまっていた。
黙ってそれを見つめていると、三輪は互いに離れて行き、やがて別々の方向に消えて行った。
はっ、と息を呑んだ。
ようやく翠がカヤを夜の散歩に連れ出した意味が分かったのだ。
翠は、三人を弔おうとしてくれている。
「そのために、今日……?」
驚き、眼を見開きながら問いかける。
「うん。さすがに川は遠すぎるから、この湖にさせて貰ったけど……ごめんな、今頃で。タケルが居ない日を見計らってたら随分遅くなっちまった」
カヤは勢いよく首を横に振った。
目が回るほど忙しいだろうに、まさかこんな事を考えてくれていたなんて予想もしていなかった。
「本当にありがとう……三人の事、ちゃんと弔えてなかったの……」
墓はおろか、遺体に向かって手を合わせる事すら出来なかった。
もうきっと、血も皮膚も、骨さえも形を残していないだろう。
本当に三人が存在していたのかさえ、分からなくなってしまうほどに。
それでもこうしてカヤ以外にも、あの人達を記憶に残してくれる人が居る。
(それがどれだけ嬉しいかなんて……)
伝えきれるはずも無いけど、大声で叫び出したくなってしまうのだ。
じわり、と世界が滲んだ。
少し湿った眼尻をこっそり拭うと、翠が後頭部をぽんぽん、と二度撫でてくれた。
「ほら、流そう」
「うん」
促され、カヤは雪中花を受け取り、湖を見つめた。
どこまでも続く水の地面は、優しくたおやかに揺らいでいる。
宵空と湖の色が混ざり合っていて、境界線は良く分からない。
カヤは雪中花を、そっと水面に浮かべた。
ゆらゆらと揺れながら、三輪の花は身を寄せ合うようにして岸から離れて行く。
それを見つめていると、不意に翠が言った。
「カヤ。一緒に言霊を唱えようか」
「え?でも、力も何も無いよ、私……」
驚くカヤに、けれども翠は柔和に微笑む。
「力なんて関係ない。気持ちが籠ってればそれで十分だ」
その言葉に、カヤはおずおずと頷いた。
翠は水面に向き直ると、眼を閉じて手を合わせた。
「俺の言葉に続けてな」
花は、もう手の届かないところまで行ってしまっていた。
カヤもまた、翠を真似て静かに目を閉じた。
「山眠り、跡無く寒光に散る御霊よ」
暗闇の中、翠の紡ぐ声が、鼓膜を揺り動かしてくる。
目を閉じているせいか、普段よりも輪郭がはっきりとして聞こえた。
「や、山眠り…あとなく、かんこうに散る御霊よ……?」
翠の唱えをそのまま口にした。
口馴染みのない言葉達は、たどたどしくつっかえてしまう。
「瑟瑟と大悲の雪落つる、されど我が心地に色変えぬ松ありけり」
「しつしつと、だいひの雪落つる……されど我が心地に、色変えぬ松ありけり」
翠のようにつらつらと言霊を落とせるわけでは無い。
きっと歪で不格好だ。
それでも、錯覚してしまう。
不思議だった。
形を成さない音が水面を走り抜けて、勢い付いたまま上昇して、分厚い雲を突き破って。
そうして、カヤの知らない、とても綺麗な場所に辿り着く。
「春風の吹くこと待つなかれ。蝶の眠りは安らかなり」
この祈りを、きっと三人は見つけ出して、笑ってくれる。
そんな気がしてならないのだ。
「春風の吹くこと待つなかれ。蝶の眠りは安らかなり」
言葉は美しい。
そんなことを産まれて初めて知った。
カヤは、そっと目を開けた。
花はもう随分と遠くまで流れてしまっていた。
黙ってそれを見つめていると、三輪は互いに離れて行き、やがて別々の方向に消えて行った。