【完】絶えうるなら、琥珀の隙間
(……寒くなってきた)

カヤは、ぶるりと身震いした。

割と長時間は湖中に浸っていた手足の先が、そろそろ凍えを訴えてきていた。

無理も無い。やがて季節は秋を迎える。

だと言うのに、カヤは湖面に縫い付けられたように動けないで居た。

だって、この場所は気持ちが良い。

何故だか泣き出してしまいそうなカヤの心ごと、あやす様に揺すってくれるから。

誰かの、たおやかな腕の中と同じだ。

「……翠」

何故だか、堪らなく会いたかった。

きっと、あの女性を視界に映してしまったせいだ。

翠と同等の美しさが、無理やりに甘い記憶を引き摺りだしたに違いない。



(今、甘い香りがすれば、私はきっと)

見事に錯覚して、そして涙が出るかもしれない。

あの人に抱かれている嬉さに打ち震え、そしてそれが幻想だと知った悲しみに絶望して。



―――――ふわり。
ふ、とあの香りが鼻に届いた。


(ああ、もう末期だ、こんなの)

なんて恐ろしい。
抱いていた願望が、カヤに『香り』まで錯覚させたらしい。

(でもまだ続いてる)

仄かに、しかし確かに。
まるで、すぐ近くに香りの根源があるかのようだ。

花でも咲いているのだろうか。

そんな事を思ったカヤは、真上を向けていた眼球を岸辺に向け、息を飲んだ。


――――波打つ水面の先、岸辺の上を一人の人間が歩いている。

不自然なほど頭をすっぽりと布で覆うその人物は、月を見上げながらゆっくり進んでいた。


(あの女の人……?)

いやそんな、まさか。
さっき目の前で、泳いで去って行ってしまったではないか。

(じゃあ、誰)

カヤは息をする事も忘れて、岸辺の人物を食い入るように見つめた。

きっと分かっていた。
あの女性じゃないなら、もうたった一人しか居ない。


その誰かが歩くたび、布の端がひらひらとはためき、時折その褐色の横顔や、身体が垣間見えた。

優しい月光が、凛とした姿を照らし出す。

――――しなやかな、美しい背中を持つその人を。




「っ、す」

心臓が跳ねあがって、思わず溺れかけた。

ばしゃん、と大きな水音が立って、その誰かが弾かれたようにこちらを向く。

「……わっ……げほっ、げほ……!」

口の中に勢いよく水が浸入してきて、思い切り飲みこんでしまった。

変なところに入ってしまったせいで、唐突に呼吸が堰き止められる。

(く、るしっ……)

慌てて水中でもがくが、焦る手足に力が入って徐々に身体が沈んでいく。

「すいっ……」

水に浸されかけている咥内で、必死に名を紡いだ―――――次の瞬間、翠の姿が湖に消えた。

激しい水飛沫が上がり、気が付けば岸には翠が取り去ったであろう布だけが取り残されていた。

当の本人は物凄い速さでこちらに泳いでくると、溺れかけていたカヤの身体を一瞬で抱き寄せた。

鼻まで沈んでいた身体が、ぐんっと持ち上がり、カヤはようやくまともに呼吸する事が出来た。

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