【完】絶えうるなら、琥珀の隙間
それでも、此処が良かった。

この何も無い、空っぽの水底で、指の先が凍えて腐り落ちて行くのを見るだけの、この場所で。


(寒い)

今日は酷く寒い。


堪らなくなって、己の身体を強く抱き締めた。





「―――――……カヤ……?」

夜の静寂を縫って、たおやかな声が届いた。



「っ、!」

思わず飛び起きたカヤは、咄嗟に入口の方に視線をやった。

外に誰かが立っている気配がした。


「……え……?翠……?」

そんな、まさか。
こんな所に翠が居るわけが無い。

しかし自分が翠の声を聴き間違えるはずが無い、と思った。

「……うん、俺」

小さくて控えめな声だが、間違いなかった。
翠だ。翠が外に居る。

「う、嘘、なんでっ……?」

慌てて入口に駆け寄り簾を捲ると、そこには頭からすっぽりと布を被った翠が立っていた。

薄暗い月灯りに照らされて、肌が白く発光している。

布の隙間からは、絹のような黒髪が風にはためき、優雅に舞っていた。

――――コウの恰好すらしていない。



「なにしてるの、そんな恰好で……!?」

仰天したカヤは慌てて翠の腕を掴み、家に引き込んだ。

「こんな夜更けにごめん。寝てたよな……」

「いや、それは全然良いんだけど……と、とにかく座って」

動揺しながらもしっかりと簾を下ろしたカヤは、すぐに灯りを付けた。

ほわん、と闇が柔らかく照らされる。

ふう、と自分を落ち着けるように息を吐いてから振り返ると、翠は未だ立っていた。

酷くバツの悪そうな表情をしている。


「あの……どうぞ、座って?狭くて申し訳ないんだけど」

もう一度促すと、翠はようやく腰を下ろした。

その向かい側にカヤもゆっくりと座り、まじまじと翠を見つめた。

よもや翠が自分の家に足を踏み入れる日が来るとは、夢にも思っていなかった。

(まさか本当に夢……?)

カヤはこっそり手の甲を抓ってみた。痛い。

なんだかんだでいつの間にか眠ってしまい、夢を見ている――――と言うわけでも無さそうだ。



「今日の夕方の事だけど……」

不意に翠が口を開いた。
ああ、やはりそれか、と思った。


カヤは戸惑いの感情を、一瞬で笑顔にすり替えた。

「伊万里さんの事?すごく可愛らしい人だねえ。吃驚しちゃった」

笑いながらそう言うが、翠の表情は固いまま。

一瞬迷った様子を見せた翠だったが、やがてどこか言い難そうに口を開いた。

「……あのな、念のために言っておくけど……伊万里の件はタケルが強行手段に出ただけで、俺も今日初めて聴かされた事だ」

「ああ、そうなの?」

「俺は伊万里を世話役にするつもりは一切無い」

「え、勿体ない!なんで?」

首を傾げて問いかければ、翠が得も言えぬ顔で見つめてきた。

今日の夕方にカヤに向けたきた、あの表情だ。
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