猫のアマテル
第十夜「嫌だ」最終話
小樽に戻ったアマテルは、地元祝津で暮らし数年が過ぎた。札幌から来た猫達もすっかりうち解け、小樽猫との間に子供ができた。 今は二代目三代目が育っていた。
札幌衆という言葉もここでは、敵対語から友情語に表現が変化し、次第に死語となりつつあった。
アマテルも九歳をむかえた。 暇なときはいつも岸壁の上で水平線を眺め、瞑想するのが日課となっていた。
いつものように瞑想していたアマテルのところに一匹の猫が近づいてきた。 親友黒猫ミミの孫娘マメだった。 マメはアマテルが大好きで身の回りの世話係も務めていた。
「アマテルさん」
「マメどうしたの?」
「アマテルさんに会いたいっていう猫が、漁協に来てますけどどうします?」
「うん、分かった。 夕日がとっても綺麗だからここに来て一緒に見ましょうって伝えてくれる?」
「はい、分かったニャ」
それからマメは一匹の猫を連れてやってきた。
「アマテルさん連れてきましたニャ」
「マメありがとうマメ」
猫はもじもじしながら、アマテルの顔をじっと見ていた。
「こんにちは」アマテルが優しく語りかけた。
「こ、こ、こんにちは、わたしミロです」
そのまま下を向いて黙ってしまった。 二人の間に沈黙が続いた。 夕焼けが色を増し赤く燃えるような空が三匹を包んだ。
マメが「ミロさん、なんか言いなさいよ」
「しっ!」アマテルがマメの言葉を制した。
そのまま沈黙は続いた。辺りは夕闇が濃くなり水平線に浮かぶイカ付けの明かりが独特の静寂を誘った。
ミロが「あの~う……」
アマテルが「はい」
「わたし、嫌なんです」
アマテルは穏やかな声で「なにが?」
「わたし自身が……キライ……大嫌いなんです」
「あなたのどこが嫌なの?」
「ぜんぶ」
「そう、じゃあ、ひとつだけ好きなところは?」
「ひとつもありません」
「そう、じゃあひとつだけ好きなところが出来たら、またここにいらっしゃい。 今、わたしからお話しすることはなにもありません」
「ど・どうしてですか?」
「はい、あなたが全否定してるうちは、話すことはひとつもありません。 帰ってください」
「だって……」ミロは黙ったままうつむいてしまった。
「マメ、帰るよ」
そういいながらミロをその場に残して立ち去った。
マメが「アマテルさん彼女一匹残して大丈夫ですか? なんであんなこと言ったのですか?」
「彼女は今すべてが嫌になってる状態なの、そして何でもいいからなにか逃げ道を探してるだけ。 そんなときにどこからか私の噂を聞きつけ話をしてみたくなった。 そんな彼女にかける言葉はないの……」
「じゃあ、彼女はこれから?」
「他に逃げ道を模索するか、もう一度自分を見つめ直すか、そのどちらか、どちらも選択は自由……自分次第」
「逃げ道を探したらどうなるのですか?」
「気がつくまで永遠に逃げるかもね。 自分からも社会からも」
「見つめ直す方を選んだら?」
「そりゃあ、そう気づいた瞬間今までの迷いは即解決する」
「どういう事ですか? 彼女は迷いじゃなく、逃げって」
「逃げも迷いのひとつの表現よ」
「もうひとつ、アマテルさんが今言った『気づいた瞬間今までの迷いは即解決』っていう意味が今ひとつ分からないニャ」
「なにかひとつの問題が解決した場合、同じ問題で悩むことは無いの。 なぜなら解決方法も答えも知ってるから。 万一似たようなことがあっても解決する手だてを既に知ってるから」
「問題が無くなる事ってあるの?」
「当然問題の種類にもよるけど、同じ事で囚われなくなることはあるよ」
「アマテルさんは?」
「当然あるよ。 ただし、私の場合問題というよりも制約かな。肉体がある以上は制約があるの。 この肉体があるうちは総てに囚われなくなることはありません」
「彼女はこの先どうなるの?」
「わからない、自分で決める」
「マテルさんでも分からないの?・・・ニャ」
「さっき言ったでしょ、彼女次第って。 未来は今の自分が創作するの。 決まってなんかいない」
「どういうことニャ?」
「この先、彼女にすばらしい未来を選ぼうと、いろんな囚われの中を不平不満だらけで生きようと、どちらも本人次第」
「だって、決められた運命があるのでは?」
「そんなのないよ。 可能性はあるけど決まってはいない。 未来は自由意志だから」
「アマテルさんが、今ある姿も自由意志?」
「当然!」
「じゃあ、なにやってもいいの?」
「お望みなら」
「私がここでアマテルさんを殺しても?」
「はい」
「殺す側は自由意志だけど、殺される側の意志はどうなるの?」
「殺されてもいいという意志が働いたら、殺されるのも自由。拒否して逃げるもよし。 戦うもよし」
「殺されるも自由意志か……」
「もう一度言うよ、未来は未確定。 どの道を選ぼうが選択は自由。 ただし、選択する場合において表面意識で選択する場合と、潜在意識が選択する場合がある。 どちらで選択するか分からない。 色んなことが複雑に絡み合ってるくるから。 だから未来は面白い、どちらにしてもこの世はよくできてる」
「じゃあ、運命論とか宿命論とかっていう言葉は?」
「そういう意味では、あるとも言えるし、無いとも言える。
そんな小難しいことを考えた昔の猫は、なにか言葉の表現したかったじゃないのかな……
学者風の猫さん達はそういう表現や言葉遊びを考えるの好きだから……」
「話戻るけど何もかも嫌だって言ってましたけど、ミロさん大丈夫ですか?」
「何か気づきがあるよ。 その嫌だ病があるとき急にパッと癒える瞬間があるの、そうなってほしいわね」
「また、よく分からニャイ」
「嫌だってどこからくると思う?」
「嫌だ、い、や、だ、ですか? 自我? 恐れ?」
「例えば自我の場合」
「自我ですか…」
「つまり、彼女は自分という自我と向き合ってるのよ」
「はあ?」
二匹は夕闇の中に消えていった。
それから二日が経ちアマテルは岸壁にやってきた。 ミロはまだ下を向いたままその場にいた。
アマテルは声をかけずにその横で瞑想に入った。 二匹が瞑想する岸壁は、秋の北風が吹きはじめ、その勢いを徐々に増してきた。
アマテルが来てから三時間ほど経ち、ミロが瞑想を解き、その直後アマテルも瞑想を解いた。
アマテルは黙ってミロを見つめた。
ミロが笑みを浮かべながら「ありがとうございました」
「私はなにもしてない、それよりお腹空いてないかい?」
「あっ、はい」
アマテルが空に向かい「ミャ~~」と叫ぶとカモメが大きな魚を放り投げてよこした。
アマテルがカモメに向かって「ありがとう」
ミロは「どうしてですか?」
「なに、お腹が空いたろうと思いカモメさんに頼んでおいたの」
「あっ、ハイ。 ありがとうございます」
「挨拶はいいから、まずは食べなさい」
ミロが食べ始めてまもなくして食す口を止めた。
「どうかした?」
次の瞬間ミロは大泣きしてしまった。 アマテルはずっと見まもっていた。
「わたし、本当は迷いなんかなかったのかもしれません。 でも、アマテルさんに会って、私の不甲斐なさが身にしみて分かりました。 そしたら急に胸のつかえがとれて気がついたら全てが……問題が……なくなってました。 あるのは私だけでした。 その私も次第に消えてしまい、最後に残ったのは完璧な空虚」
言い終えるとまた泣き出した。
「好い経験しましたね。 でもそれはあなたがした経験。 経験は経験でしかないの。 経験してるあなたがいるの。 それを超える経験もあるのよ。 楽しみにしてね」
「ハイ……」
その晩、アマテル、マメ、ミロの三匹は朝まで、マタタビ酒を飲みあかした。 翌朝ミロは深々と二匹に頭を下げ、祝津を去っていった。
ひと月後、アマテルは住み慣れた祝津を離れることにした。
アマテルが祝津から去った理由は、祝津の岸壁から見る月があまりにも綺麗だったから……
小樽を出たアマテルは、余市を経由し、積丹半島の神威岬で余生を終えた。
THE END
小樽に戻ったアマテルは、地元祝津で暮らし数年が過ぎた。札幌から来た猫達もすっかりうち解け、小樽猫との間に子供ができた。 今は二代目三代目が育っていた。
札幌衆という言葉もここでは、敵対語から友情語に表現が変化し、次第に死語となりつつあった。
アマテルも九歳をむかえた。 暇なときはいつも岸壁の上で水平線を眺め、瞑想するのが日課となっていた。
いつものように瞑想していたアマテルのところに一匹の猫が近づいてきた。 親友黒猫ミミの孫娘マメだった。 マメはアマテルが大好きで身の回りの世話係も務めていた。
「アマテルさん」
「マメどうしたの?」
「アマテルさんに会いたいっていう猫が、漁協に来てますけどどうします?」
「うん、分かった。 夕日がとっても綺麗だからここに来て一緒に見ましょうって伝えてくれる?」
「はい、分かったニャ」
それからマメは一匹の猫を連れてやってきた。
「アマテルさん連れてきましたニャ」
「マメありがとうマメ」
猫はもじもじしながら、アマテルの顔をじっと見ていた。
「こんにちは」アマテルが優しく語りかけた。
「こ、こ、こんにちは、わたしミロです」
そのまま下を向いて黙ってしまった。 二人の間に沈黙が続いた。 夕焼けが色を増し赤く燃えるような空が三匹を包んだ。
マメが「ミロさん、なんか言いなさいよ」
「しっ!」アマテルがマメの言葉を制した。
そのまま沈黙は続いた。辺りは夕闇が濃くなり水平線に浮かぶイカ付けの明かりが独特の静寂を誘った。
ミロが「あの~う……」
アマテルが「はい」
「わたし、嫌なんです」
アマテルは穏やかな声で「なにが?」
「わたし自身が……キライ……大嫌いなんです」
「あなたのどこが嫌なの?」
「ぜんぶ」
「そう、じゃあ、ひとつだけ好きなところは?」
「ひとつもありません」
「そう、じゃあひとつだけ好きなところが出来たら、またここにいらっしゃい。 今、わたしからお話しすることはなにもありません」
「ど・どうしてですか?」
「はい、あなたが全否定してるうちは、話すことはひとつもありません。 帰ってください」
「だって……」ミロは黙ったままうつむいてしまった。
「マメ、帰るよ」
そういいながらミロをその場に残して立ち去った。
マメが「アマテルさん彼女一匹残して大丈夫ですか? なんであんなこと言ったのですか?」
「彼女は今すべてが嫌になってる状態なの、そして何でもいいからなにか逃げ道を探してるだけ。 そんなときにどこからか私の噂を聞きつけ話をしてみたくなった。 そんな彼女にかける言葉はないの……」
「じゃあ、彼女はこれから?」
「他に逃げ道を模索するか、もう一度自分を見つめ直すか、そのどちらか、どちらも選択は自由……自分次第」
「逃げ道を探したらどうなるのですか?」
「気がつくまで永遠に逃げるかもね。 自分からも社会からも」
「見つめ直す方を選んだら?」
「そりゃあ、そう気づいた瞬間今までの迷いは即解決する」
「どういう事ですか? 彼女は迷いじゃなく、逃げって」
「逃げも迷いのひとつの表現よ」
「もうひとつ、アマテルさんが今言った『気づいた瞬間今までの迷いは即解決』っていう意味が今ひとつ分からないニャ」
「なにかひとつの問題が解決した場合、同じ問題で悩むことは無いの。 なぜなら解決方法も答えも知ってるから。 万一似たようなことがあっても解決する手だてを既に知ってるから」
「問題が無くなる事ってあるの?」
「当然問題の種類にもよるけど、同じ事で囚われなくなることはあるよ」
「アマテルさんは?」
「当然あるよ。 ただし、私の場合問題というよりも制約かな。肉体がある以上は制約があるの。 この肉体があるうちは総てに囚われなくなることはありません」
「彼女はこの先どうなるの?」
「わからない、自分で決める」
「マテルさんでも分からないの?・・・ニャ」
「さっき言ったでしょ、彼女次第って。 未来は今の自分が創作するの。 決まってなんかいない」
「どういうことニャ?」
「この先、彼女にすばらしい未来を選ぼうと、いろんな囚われの中を不平不満だらけで生きようと、どちらも本人次第」
「だって、決められた運命があるのでは?」
「そんなのないよ。 可能性はあるけど決まってはいない。 未来は自由意志だから」
「アマテルさんが、今ある姿も自由意志?」
「当然!」
「じゃあ、なにやってもいいの?」
「お望みなら」
「私がここでアマテルさんを殺しても?」
「はい」
「殺す側は自由意志だけど、殺される側の意志はどうなるの?」
「殺されてもいいという意志が働いたら、殺されるのも自由。拒否して逃げるもよし。 戦うもよし」
「殺されるも自由意志か……」
「もう一度言うよ、未来は未確定。 どの道を選ぼうが選択は自由。 ただし、選択する場合において表面意識で選択する場合と、潜在意識が選択する場合がある。 どちらで選択するか分からない。 色んなことが複雑に絡み合ってるくるから。 だから未来は面白い、どちらにしてもこの世はよくできてる」
「じゃあ、運命論とか宿命論とかっていう言葉は?」
「そういう意味では、あるとも言えるし、無いとも言える。
そんな小難しいことを考えた昔の猫は、なにか言葉の表現したかったじゃないのかな……
学者風の猫さん達はそういう表現や言葉遊びを考えるの好きだから……」
「話戻るけど何もかも嫌だって言ってましたけど、ミロさん大丈夫ですか?」
「何か気づきがあるよ。 その嫌だ病があるとき急にパッと癒える瞬間があるの、そうなってほしいわね」
「また、よく分からニャイ」
「嫌だってどこからくると思う?」
「嫌だ、い、や、だ、ですか? 自我? 恐れ?」
「例えば自我の場合」
「自我ですか…」
「つまり、彼女は自分という自我と向き合ってるのよ」
「はあ?」
二匹は夕闇の中に消えていった。
それから二日が経ちアマテルは岸壁にやってきた。 ミロはまだ下を向いたままその場にいた。
アマテルは声をかけずにその横で瞑想に入った。 二匹が瞑想する岸壁は、秋の北風が吹きはじめ、その勢いを徐々に増してきた。
アマテルが来てから三時間ほど経ち、ミロが瞑想を解き、その直後アマテルも瞑想を解いた。
アマテルは黙ってミロを見つめた。
ミロが笑みを浮かべながら「ありがとうございました」
「私はなにもしてない、それよりお腹空いてないかい?」
「あっ、はい」
アマテルが空に向かい「ミャ~~」と叫ぶとカモメが大きな魚を放り投げてよこした。
アマテルがカモメに向かって「ありがとう」
ミロは「どうしてですか?」
「なに、お腹が空いたろうと思いカモメさんに頼んでおいたの」
「あっ、ハイ。 ありがとうございます」
「挨拶はいいから、まずは食べなさい」
ミロが食べ始めてまもなくして食す口を止めた。
「どうかした?」
次の瞬間ミロは大泣きしてしまった。 アマテルはずっと見まもっていた。
「わたし、本当は迷いなんかなかったのかもしれません。 でも、アマテルさんに会って、私の不甲斐なさが身にしみて分かりました。 そしたら急に胸のつかえがとれて気がついたら全てが……問題が……なくなってました。 あるのは私だけでした。 その私も次第に消えてしまい、最後に残ったのは完璧な空虚」
言い終えるとまた泣き出した。
「好い経験しましたね。 でもそれはあなたがした経験。 経験は経験でしかないの。 経験してるあなたがいるの。 それを超える経験もあるのよ。 楽しみにしてね」
「ハイ……」
その晩、アマテル、マメ、ミロの三匹は朝まで、マタタビ酒を飲みあかした。 翌朝ミロは深々と二匹に頭を下げ、祝津を去っていった。
ひと月後、アマテルは住み慣れた祝津を離れることにした。
アマテルが祝津から去った理由は、祝津の岸壁から見る月があまりにも綺麗だったから……
小樽を出たアマテルは、余市を経由し、積丹半島の神威岬で余生を終えた。
THE END


