クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
第二章 吉野の桜

いざたまえ(さあいらっしゃい)、桜のメッカ、吉野へ

「吉野、吉野」。登って来た吉野山ロープウエイのゴンドラの到着に合わせて構内アナウンスが流れる。山頂は昨夜来の季節はずれの寒気のせいで薄ら寒く、小雪さえ舞っていた。桜のメッカとは云え訪れるにはいささか時期尚早であり、またこの天気とあってさすがに人の出足はまばらだった。然るに到着したゴンドラからはリュックを背負った娘ばかり九人が出て来、駅前の観光案内版に移動しながらてんでに赤い気炎を上げ始める。
「さあ、着いたぞ!吉野、吉野。東京からはるばるとやって来たぞ!」とまずはリーダーの亜希子が雄叫び(?)をあげる。「うわっ、ここが音に聞く桜のメッカ、吉野ですねえ。感激いっー!」と取り巻きの郁子が合わせる。他の面々もキャーとか、ワーとかそれぞれ気勢を上げるのだが三人ばかり逆らう者がいた。「何がキャー、感激い―っよ。寒くってしょうがない。雪が舞ってるじゃない。桜もまったく咲いてないし、こんな時に来た私たちって、まるっきりバカじゃん」とサブリーダーの梅子が云うと、その取り巻きの加代が「そうよ、そうよ」とさっそく応じ、いまひとり恵美という、名とはかけ離れた男まさりの豪気な娘が「ホントすっよね。リーダーは機転が効かないって云うか。中止にすればよかったんですよ。梅子さんがそう進言したのに」と聞こえよがしに大声で、且つあけすけに云う。しかし「まー、あんなこと云ってますよ、リーダー」とこちらは慶子とお嬢様コンビを組む匡子(くにこ)がおもねるように亜希子に云い、その相方の慶子が「そうよ。シーズン中の吉野なんて桜じゃなく人波を見に行くようなもんだから、ずらして行こうって、みんなで決めたくせに」とそれに合わせた。残った二人の織枝と絹子は皆の顔を見るばかり、いたっておとなしい性格と知れる。恵美が慶子らへの反発代わりにみずからの歌才を披露する。「これじゃあさあ、源実朝の‘音に聞く吉野の桜咲きにけり山のふもとにかかる白雪’じゃなくって、‘音に聞く吉野の桜冬枯れて山にかかるはホントの白雪‘じゃないのさあ」と歌を詠んで「な、加代?」と妹分に賛美を求める。「うめえ、恵美」とその加代。お人好し風の郁子も「うまいですう。狂歌の名人」とほめたのか皮肉ったのかとにかく一言。しかし各々に云わすだけ云わしておいてからリーダーの亜希子が断を下した。
「慶子の云う通りよ。私たち白河女子大歌道部は和歌の研修に来たのよ。人混みじゃあ歌境も湧かないでしょ?私たちの聖地、西行庵まで行って、そこで歌合わせするんだからね。みんな歌を考えといてよ」。そう云ってはみたもの
の内心では梅子ら一党の云うとおりと思わぬでもない。観光には確かにあいにくの天気だったが、しかしどうしても今日と促されるような何かを心中に感じてもいたのだった。自分たち以外の誰かが待っているような、説明不能の何かを…。
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