クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
観光案内板を九人で占拠するような形になっていたのだが、その輪の外に最前より来て案内板を見るふりをしながらその実娘たちの会話に相好をくずしている人物がいた。それを見て亜希子が「ちょっと織枝と絹子、うしろにいる人を通してあげて。私たちが邪魔をしているのよ。どうぞ、こちらへ」と云ってその人物に声をかける。「へえ、すんまへんね、ほなちょっとだけ…」と云いながら前に出て来て「えーっと、西行庵はどこやったかな」と云いながら案内板に見入るのだが、しかしそれよりは横にいる亜希子の存在が気になる様子だった。年のころ七十前後の、頭に白髪がまじった、人品あやしからぬ紳士然とした人物。ややあって「あの、西行庵まで行かれるんですか?」と亜希子に声をかけられると待ってましたとばかり向きなおって「へえ。ちょっとお参りに。あいにくの天気ですけど、なんかこう、急にお参りしたくなりましてな。虫の知らせっちゅうか、ありましたんですけど、いま判りました。こないべっぴんなお嬢様方がようけ来られてるんやったら、虫の知らせとなったわけや」と答えれば「いやだ」「おじょうず」などと面々が黄色い声をあげる。首尾よく受けたせいか顔を赤らめながら老人が「いや、ほんまですよ。ところでいま何となく伺とったら耳に入ったんですけど、お嬢様方もやはり西行庵に行かれるんですか?」と亜希子に聞くのだがそのたずねる表情がいかにもまぶしげだ。ひょっとして年甲斐もなく赤面したのはこちらのせいかも知れない。すなわち亜希子。他の八人の娘らもそれなりに各々見られもするのだが、この亜希子はまったく別格の代物だった。月並みに云えばハッと目覚めるような美しさとでも云うのだろうが、その若いのにもかかわらず面貌にどこか古風な面影があった。古代の日本の、例えば平安時代の風を感じるような、何とも云えぬ気品があった。そのゆえはこう云えばいいだろうか、過去現代をつらぬくような生き通しの意志が現れている、とでも。もし人に通世の願いなどというものがあるならばまさしくそれを保っている感があった。人の美しさは造型だけでは決して測れない。心即如是相となるのであり、その志が三世を貫くものであるならば蓋しその美しさも桁外れとなる道理である。もっとも確かに造型だけでもこちらも桁外れの美人なのは間違いない。その美女が「はい。お参りに。私たち大学の歌道部なんです。歌聖西行の庵にぜひ詣でたくて、こうして東京からはるばるとやって来ました」と云うのに「いえ、お参りじゃなくて単なる見学です」と口をはさむ娘がいた。梅子だった。戸惑う風を見せながら老人が「いや、ま、それはどうでも」と苦笑しさらに「ほー、しかし短歌、和歌ですか。へえー、お若いのに感心ですなあ。もしよろしかったら向こうで歌合わせでもさせていただきたいもので。もし、お嫌でなかったらですが。ははは」と意外なことを云う。
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