クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
「まあ、それはそれは。嫌などと、とんでもない。こちらこそ是非お願いします。御指導いただければ来た甲斐があります」「いやいや、指導なんてとんでもない。単なる下手の横好きですがな。ははは」などと老人と亜希子が勝手に話を進めるのを梅子一派がいまいましげに聞いている。亜希子には自分の云うことが部の決定事項とでもするような強引なところがあった。どうかするとほぼ同年齢であるにもかかわらず自分の子供八人を引率するような感すらも時にあった。しかしではあっても方やの梅子に於いても必要以上に亜希子に盾突く感があって、今も一言その梅子から来るなと亜希子が感じた刹那駅前からやや離れたところに路駐していた車がクラクションを軽く二回鳴らした。見れば黒塗りの高級セダンが止まっていて運転席には制帽と白い手袋姿の運転手がおり、後部座席の窓が半分ほど下がって、そこから和服の婦人が白い手を突き出してこちらに振っている。隙間から垣間見えた顔はよくはわからなかったがおそらく三十代くらいの妙齢の麗人と見えた。この老人の娘だろうか、とにかくそれへ手を上げて合図を返したあと「すんまへん、人を待たしてるもんでここで失礼します。二時間くらいあとに西行庵へ行きますさかい、もしまだ居られたら、是非お手合わせのほどをお願い致します。あの、わたし名前は鳥羽と申しますが、さきほど確かシラカワ女子大とか何とか聞いて…もし失礼でなかったらリーダーの方なり、お名前をお聞かせ願えないでしょうか。初対面でまことに失礼な話で…」と云いわけもできなそうに逡巡するふりを見せるのに「藤原、藤原亜希子と申します。その時間にはちょうどいるはずですので、こちらこそ是非…お待ちしています」と云って亜希子は老人、いや鳥羽に頭を下げた。「藤原亜希子…」とおうむ返しに云ったあとなぜか一瞬鳥羽老人は亜希子の顔に改めて見入った。何とも不思議そうな表情を浮かべて何かを感じているようすだったがしかしすぐに我に返って「い、いや、失礼。お顔同様すばらしいお名前で一瞬自失してしまいました。ははは。まさかあ、藤原九条とか、三条とかのお方ではない…」と聞く途中でまたクラクションが鳴らされた。ふり返って「やかましい!」と怒鳴ったあと鳥羽は「いや、まったく関西人はせせこましくて礼儀も知らずに…ははは。すんまへん、大声出してもうて。とにかく居られても居られへんでも必ず二時間もせんうちにお伺いしますさかい、ひとつ、よろしゅう…では」と云ってようやく車の方へと歩きかけたが何かを思い出したかのようにまたこちらを向いて「あ、そうそう、さっきどなたか桜咲いてへんとか云われてましたけど、もうすでに満開ですよ、桜」と云う。それに郁子が「えー?どこがですか?かかる冬枯れぞ、なんですけど」と訊くと鳥羽は面白い子だとばかり笑ったあとで「いや、私には、ですよ。いまが満開の娘さんたちに囲まれて、まぶしい限りですがな」と皆を持ち上げてみせる。さきほど同様匡子らが「いやだ」「お上手」などと黄色い声を上げる。あとあとを考えて、またつい怒鳴ってしまった自分の恐いイメージを払拭しようとしてそうしたのだろう。鳥羽老人はようやく車の人となった。
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