クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
 窓から手をふりながら走り去って行くセダンを見送りながら梅子が「冗談じゃない。嫌だからね、あたしは」とさっそく亜希子にごねた。亜希子の代わりに郁子が「どうしてですか?よさそうなお爺さんではないですか。その時間ならちょうどお昼御飯でしょうから、私がこさえて来たランチを御馳走してあげますよ。梅子さんは安心して自分のお弁当を食べれるから心配しないでください」と云うのに「誰が昼御飯のことなんか云ってる!あたしはあの爺さんと同席するのが嫌だと云っているのよ」と気炎をあげる。なぜなのか、初対面なのにも拘らず本当に虫唾が走るほど嫌なようだ。それを察した恵美が「あの爺!」とまずぶちあげ更に「あの爺、絶対エロ爺だからね。リーダーを見詰める目付きのいやらしいったら、なんの。思わずブッ飛ばしてやろうかと思った」などと梅子への追従に止まらない悪態を吐く。「まー、あんなこと…」匡子が絶句し「お下品なこと云わないの。歌道部よ、私たち。あんた空手部に入るのを間違えたんじゃないの?」相方の慶子が諌めるがそれに「空手部なんか、ねえ!」とまことに男らしい恵美であった。しかし慶子は「あら、そうですか。でもね、もう部長が決めてしまったことだし、いまさらお断りもできないでしょ?それに私の勘だけどさ、あの方相当の歌を詠むわよ。部長が云った通り、いい勉強になるんじゃない?」と怯まず、匡子も「そうよ。恵美さん、あなた歌合わせするのが怖いんでしょ」「なにをー!?」「キャー、部長、亜希子さん、助けて」などと喧しい。
「はしけやし翁の歌におぼほしき九(ここの)の子らやかまけておらむ、よ」亜希子が和歌を一首出す。「何ですかあ?それ」と郁子が訊き「やべ」とたちまち恵美が逃げ腰になる。どうも匡子の指摘が正しいらしい。「年長者を見下すような私たちは情けないってこと。現実には私たちヒヨッコじゃ何につけ、かなわないってことよ。むこうから歌合わせしたいって云うくらいだから、慶子が云う通りそれ相当の歌を詠むんでしょうよ。人生経験の違いから云っても、奇しくも聖地吉野で得た御縁だ、ということからしても、私は頼んででも御一緒すべきだと思うわ。とにかくもうそろそろバスが来るわ、バス停に移動しましょ」打ち切るように云うのに「何が聖地で、何が御縁よ。万葉集でしょ?その歌。だったらあたしは‘否もうも欲りするままに許すべきかたち見ゆれば我も寄りなむ’、とは云わないからね。だいたいあんたあやしいって思わないの?あの爺さんを。吉野のどこに高級車で来たんだか知らないけどさ、西行庵にお参りだなんて出まかせだよ、たぶん。道がわからないなら運転手に来させればいいのに、自分が出て来たりしてさ。恵美が云ってることあたりが恐らく正解よ。あんた責任あるリーダーでしょ?みんなの安全とか少しは考えなさいよ」などと梅子がもの申す。「安全って、あのお年寄りが私たち九人にどうしたって云うのよ。むしろ恵美なんかの方があの人にとって危険なんじゃないの?みんなの安全より、あの人の安全をはからねばならない義務を感じているわ、私は」「部長、そりゃないっすよ」「じゃ、じゃあ、みんなの決を取りなさいよ、決を。何だってあなたはいつもいつも一人で決めてしまうんだから。あたしはねえ…うっ」恵美も梅子もさえぎって「いいから、いいから。ほら遠くにバスが見えて来た。急ぎましょ、バス停へ。それから織枝と絹子、二人でクスクス笑ってないで、こっち、こっち」と亜希子が先頭に立って動き、その織枝と絹子、郁子と匡子に慶子が従った。梅子一派は渋々とその後に付いて行く。奈良交通バスの白い車体がコトコトと吉野道を上がって来てバス停で止まる。いかにも連携の取れた九人は次々と車上の人となっていった。
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