クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)
第三章 西行法師

尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君が行衛(ゆくえ)を

 尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君が行衛(ゆくえ)を  ー西行法師       
                            
 金峯神社を囲む高い桜や杉の木の梢の間からやわらかな日のひかりが射している。亜希子たちの到着に合わせたかのように曇り空が晴れ始め、南西の方角から、すなわち西行庵のある方角から暖かな春の風が吹いて来た。平安時代以来の古風な延喜式社殿の前に立った時、亜希子の胸中に何とも云えぬ懐旧のような想いが湧いて来て、はからずも章頭に掲げた西行法師の一首が頭に浮かんで来たのだった。『法師が待っている。再会を喜んでいる』という何の脈路もない想念が浮かんで来る。実際ここに来て亜希子の心は至って穏やかではなくなっていた。始めての土地であるにも拘らず前に訪れたことがあるという感じを持つことがあるが、この金峯神社の流造の拝殿前に立った時がそうで、亜希子にはまったく理解不能のことだった。常々訪問することに憧れてはいたが吉野も、その奥千本の金峯神社も、まして聖所西行庵もまったく初めての地である。その西行の時代で云えばはるか平安の昔、時の上皇が奥方・女房たちや臣を引き連れてここ金峯神社まで御幸したことを亜希子は歴史の講義で耳にしたことがあるが、果して自分がその内の一人ででもあったものかなどと訝られたりもする。しかし皆の手前いつまでもそんな想いに浸っているわけにも行かず、義経の隠れ堂まで行って帰って来た恵美と加代の元気者の帰還を見てやおら皆を促し、神社右横の西行庵へ続く坂道を登り始めた。現在時刻御前十一時半、東京七時発の新幹線以来四時間半の強行軍もそろそろ終りに近づいて来た。聖所は目の前だ。冬からいきなり初夏に急変した天気に応援を得て、亜希子御一党は運命の苔清水の里へと歩を速めて行った。
「ちょっと、亜希子さーん。ここらで休憩しましょうよ。私もう疲れちゃった」お嬢様コンビのうち匡子が音をあげて、かなり前を行く亜希子と郁子、織枝と絹子の四人に呼びかけた。こちらの匡子側は残りの五人である。「さっき金峯神社で休んだばかりでしょ。まだいくらもたってないじゃない。もうすぐ、そこよ。頑張って」としかし亜希子はつれない。「あ―ら、お弱いこと。匡子お嬢様、おぶってさしあげましょうか?」と加代が聞く。「イーだ。そう云うあなた方だって遅れがちじゃないの」「おかまいなく。あたしたちはわざと遅らしているんだから」の遣取に「先に行かせりゃいいのよ。亜希子のやつ、参拝だなんて云って。西行はただの和歌の名人。何とか教の教祖じゃないのよ。参拝じゃなくってケ・ン・ガ・クよ、見学」と梅子が自説を賜う。「そうですよね」加代が相槌を打って「それと梅子さん、もしさっきの爺と本当に歌合わせなんかやらされた時は、私と恵美に加勢お願いしますよ」と頼み込む。「まかせとけ。白河女子大歌道部をなめるな。亜希子のやつ、年配者がどうのなんて、いい子ぶってさ。今日日金で歌人面(づら)してるやつらばっかりで、スキルも中身もないのが殆どよ。どうせその口でしょ、あの爺さんも。あたしが化けの皮はがしてやるから、加代も恵美も安心してていいよ」力強く梅子が請け合った。
< 7 / 51 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop