この溺愛にはワケがある!?
「行ってきます」

美織はいつものように朝7時45分に家を出た。
秋も半ばの朝の陽射しは爽やかで、庭の紅葉は半分だけ赤く染まりつつある。
美織の家から職場までは歩いて15分。
始業開始の30分前に着いて、掃除をしパソコンの電源を入れる。
そして、給湯室でコーヒーを5人分淹れていると、いつものメンバーがやって来た。

「おはようございます。美織さんっ!」

後輩の木ノ下寧々(ねね)は、美織より三つ下の22才。
長い髪を上の方で束ね、清潔感溢れる白いブラウスをキュートに着こなしている。
彼女は今年、この市役所の住民課に入ったばかりの新人だ。

「おはよう。木ノ下さん。コーヒー、入ってるわよ」

「ありがとうございまーす!毎朝美織さんの淹れるコーヒーが楽しみでー」

「ふーん、じゃあ、手間賃とろうかな?」

その言葉に寧々は大袈裟に驚いてみせるが、これが美織のいつもの冗談であるのは百も承知である。

「えー、勘弁してくださいよー!ただでさえ公務員なんて給料低いんですからー」

「知ってる。ま、しょうがないわ。公僕ってそういうものだもの」

そうしていると、そのたわいもない会話に低い声が加わった。

「おはよう!あ、コーヒーもらうねー」

と言ったのは住民課、前田課長。
美織の直属の上司で、入った時から指導してくれたのも彼だ。

「おはようございます、課長。今日は早いですね。奥様の送りですか?」

「そうそう。昨日飲み過ぎちゃってねー。車置いて帰ったからさ」

「飲み会、多いですねぇ。やたら、公務員って飲みたがりますよね?何でですか?」

寧々は少し棘のある声で前田課長に言った。
それはきっと、寧々の財政課にいる彼氏も飲み会が多くて構ってもらえないからだろう。

「知らないよー。ストレス発散とか?俺は別に飲みに行かなくてもいいんだけどさ。誘われるもん」

前田課長は、寧々の怒りの矛先を違う所に向けようと必死だ。

「おはよーっす。なんすか?お?寧々っちご機嫌斜めか?」

眠そうな目をこすりながら、話に割り込んできたのは細川亮二。
見た目と話し方がチャラいが、実は美織と同じ国立大学出の秀才。
美織の1つ下で、その年の採用筆記試験をパーフェクトで通過したという噂すらある。
今は住民課だが、そのうち財政課、秘書課、広報課、人事課という出世コースを辿るだろうと言われていた。

「そんなんじゃないです!もう、朝から茶化さないで下さい!亮二センパイ!」

と、寧々がドンッと亮二をげんこつで殴る。

「いってぇ!本気で殴るな、本気で!」

腕を擦り、美織からコーヒーを受け取ると、猫舌の亮二はふぅふぅと冷ましながら一口啜った。
僅か一畳の給湯室に四人、さすがに狭く感じて、美織は残りのコーヒーを飲み干して外に出る。
そして廊下に出ると、ちょうどこちらに向かってきた女性が目に留まった。

「あら!加藤さん、おはよう!」

「おはようございます。福島さん。コーヒー、入ってますよ、どうぞ」

「そう?ありがとう。でも、早く飲まないと仕事始まっちゃうわね?」

「ええ、あと五分ですよ。急いで下さい」

「了解!」

そう言って福島芳子30歳(主婦)は足早に給湯室に消えていった。

美織は背伸びをしながら自分の席についた。
すでにパソコンは、照会画面になってスタンバイしている。
余った時間で駐車券の判子、日付印、首からかけた名札をチェックした。
メガネをキュッとクロスで拭いていると、寧々がさっと隣の席に座り、にっこりと笑った。
それから、亮二、芳子がそれぞれの席に座ると、ちょうど就業開始のベルが鳴る。

住民課、8時30分から17時15分までの窓口業務、加藤美織のお仕事が始まった。
< 2 / 173 >

この作品をシェア

pagetop