流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 柔和な表情で女が男を見つめた。

「エリッヒ」

「なんだ?」

「あなたはとても優しい人ですね」

 男は女の目を見つめたまま黙っていた。

 エミリアがぽつりとつぶやいた。

「わたくしには三年間の記憶がないのです」

「記憶が?」

「ずっと病で伏せっておりましたから」

「そうか」

「知らぬ間に兄上たちも、お母様まで亡くなってしまっていて」

 エミリアが声を詰まらせた。

「それに、お父様まであんな事に」

 ぽろりとこぼれる涙をエリッヒは指先でぬぐってやった。

「今でも、夜眠って朝目覚めたらまた誰かがいなくなっているのではないかと不安になります」

「もう大丈夫だ。心配ない」

「あなたはいなくなりませんよね?」

「ああ。ここにいるさ。約束する」

「ありがとうございます」

 エミリアは目を閉じたかと思うと、エリッヒに顔を近づけてきた。

 思いがけない口づけだった。

「お、おい、何をする」

「おやすみのご挨拶です。いつもミケルに口づけてから眠るのです」

「ミケル?」

「熊のぬいぐるみです。おかしいですか」

 ナポレモで落としたのを拾ってやったことを思い出した。

 荷車に放り込んで、宿屋でもそのまま置いてあった。

 ということはあの火事で燃えてしまったことになる。

 エリッヒの心に針が刺さったような痛みが走った。

 償いの言葉で解決できることではないだろう。

「おかしくなんてないさ」

 ただ、そう返事することしかできなかった。

 エミリアが微笑む。

「シュライファーには笑われました」

 突然出てきた男の名前にエリッヒは苛立った。

「シュライファーというのはあんたの執事のことか」

「ええ、そうですわ。ご存じですの?」

「祝賀会の日にテラスで少しだけ顔を合わせたからな」

「そうでしたわね」

 エリッヒはそれ以上の会話を拒むようにエミリアをきつく抱き寄せた。

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