流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 エミリアは濡れた馬の背からずり落ちた。

 水たまりに尻餅をつく。

 何が起きたのか理解できない。

 体を振動が突き上げ、暴れる馬の脚が呆然としたエミリアの顔をかすめる。

「伏せろ」

 エリッヒがエミリアを突き飛ばす。

 痙攣しながら馬が倒れてくる。

 間一髪でよけて顔を上げると、馬の首に矢が刺さっていた。

 どこからか矢を射られたのだ。

 周りを見ても雨に濡れた草原が広がるばかりで人の気配は感じられない。

「来い」

 エリッヒがエミリアの背中をつかんで立ち上がらせる。

 屈みながら草むらを駆ける。

「待ち伏せだ。やっぱり敵は一人じゃない」

 周囲は見渡す限りの草原だ。

 多少の起伏はあるが、膝下くらいの草丈では隠れるところがない。

「思った通りだ。街にいた奴はおとりだったんだ。わざと姿を見せて俺達をここに追いたてたんだ。俺達は狩られている」

 しゃがんだ姿勢のままで脚を動かし続ける体力はエミリアにはなかった。

 草に隠れていた石につまずいて転んでしまうが、エリッヒは容赦しない。

 彼女をつかんで引きずりながら走り続ける。

 エミリアは体を丸めて怪我をしないようにするのが精一杯だった。

 小さな沼地がある。

 エリッヒはエミリアを冷たい泥の中に押し込んだ。

「ここにいろ。絶対に出るな」

 口の中まで苦い泥が入ってきて返事をすることすらできなかった。

 エリッヒは草の中で腹這いになって様子をうかがっていた。

 全身の毛が逆立つような恐怖と緊張感で心臓が爆発しそうだ。

 だが、動いたらやられる。

 体内が沸騰しようとも今は動くわけにはいかない。

 矢が飛んできた方向に一人いるのは確認している。

 髪を剃っていてほおひげのある男だった。

 街から追いかけてきた猟師風の男の姿はまだ見えない。

 どこにいるのか、水煙のせいで視界が狭く、雨音に消されて敵の馬の息も鳴き声も聞こえない。

 挟み撃ちをするのなら後ろにいるのだろうか。

 草から体を出さないように這ったまま前進する。

 矢を撃ってきたほおひげの男との距離は縮めずに半径を保ったまま向きを変えていく。

 それでも街にいた男は視界に入ってこない。

 入念な準備と作戦を練ることが戦いを有利にする。

 しかし、実戦ではそれをすべて捨て去る勇気を持つ者だけが死線の境界から生還できることをエリッヒは知っていた。

 獣になれるか。

 エリッヒは思い切って立ち上がると、一気に駆けだした。

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