この人だけは絶対に落とせない
23時15分。22時に店は閉店したはずだが、閉店作業が長引いたせいか、久川から電話がかかってきたのはその時刻だった。
『お疲れ。もうベッド?』
店でいる時の声とは全く違う。低く、甘い声だ。
「うん……あのね」
気持ちは固まっているので素早く切り出す。
「今日関店長に言われた。久川との仲を感づいている女性陣から苦情が出てるって」
返答のセリフは最初から浮かんでいた。
『どんな苦情? それならもう、結婚するって言えばいいよ。黙っとく必要ない』
そうじゃない。
「どんな…といいうわけでもないから、別に怒られたわけでもない。だけど、女性陣の気持ちに気付かなくなるとカウンターが崩壊するから困るって…」
『どんな気持ちなんだよ。え、関店長はどうしたいわけ? 俺が言うよ』
「いや、そうじゃない」
久川が声を荒げた。彼に説明することが、これほど難しいとは思っていなかったので、少し間を空けて、言葉を選ぶ。
「関店長は、プライベートなことには何も言わないし、付き合ってることは何も悪くないし、別れることが最善だとは思ってないって」
『そりゃそうだろ』
「……だけど私は嫌だと思った……」
ここを、はっきりと言っておかなければならない。
『何が』
数秒の沈黙。
「……店では最善の注意を払ってた。それはお互いそうだったと思う。だけどやっぱり浮ついた部分があったんだと思う」
『……付き合ってることをとやかく言われて、眞依が嫌な思いするんなら結婚した方がいい』
そう言われると、それが最善なんじゃないかと思ってしまう。
「……」
『結婚したら、それが普通になるし。夫婦でいればそれは自然だ。誰もどうも思わない』
「……」
確かに、そうかもれしない。
『結婚しよう、そうした方が良い』
でも多分、そういうことじゃない。
「いや待って、そういうことじゃないと思う」
『どういう? ……そっち向かうよ。電話で済む話じゃない』
「………うん」
既にこちら方面に向かっていたと思われる久川は10分ほどでアパートに到着した。この家にも1度来たことはあるが、こんな状態で2度目を迎えるとは思いもしなかった。
既にパジャマで、化粧も落としているが、もう既に、そんなことはどうでも良かった。
深夜のインターフォンは響くので、ドアを開けて出迎える。
顔が随分真剣だったので、それに自分が答えられるか不安になって背を向けた途端、背後から抱きしめられた。
顎を取られて、キスをされる。
前を向かされて、思い切り抱き締められる。
「結婚する。絶対に誰にも渡さない」
若干汗臭い、男の匂いが鼻に通った。誰も知らない。自分だけの匂い。以前はそれが優越感へと変わったはずだ。だけど今は、その言葉が心をすり抜けて行く。
結婚を目前にした綾子の嬉しそうな顔が蘇った。だが、今の自分はそれを臨んでいないのがはっきりと分かる。
「……」
何も反応しないのを不審に思った久川は力を緩めると顔色を確認してきた。
「嫌……なのか?」
目を見つめられると、逸らすしかない。
「今日、すっごい後悔した」
「関に何言われた?」
「だから、何も言われてないって」
「あの人は遠回しに責めるんだよ」
「責めてないって!」
関と碌に話もしたことがないくせに!と思い余って身体を離した。
「俺が言うよ。関に」
視線が痛いほど突き刺さる。
「何を? やめて。今日せっかくいい感じで帰って来たんだから」
久川がぎろりと睨み、身体が縮こまった。
「いい感じってなんだよ!あいつといい感じになって帰って来たってことかよ!」
「違うよ! 仕事の話だよ!」
「持ち上げられたってこと?」
「………」
さすがに腹が立った。
「酷い」
言い過ぎたと察した久川が、腕に手を回そうとしてきたので、
「やめて」
怒りに任せて言い切った。
「嫌。もう会わない。忘れて」
背を向けて放つ。
「眞依…」
また腕に手が触れたので、
「絶対後悔すると思った。だから嫌だって最初に言ったのに」
久川があんまりしつこいからこんなことになったんだ。
「……」
さすがに何も言わない。
「……。店では普通にしてるから……。
私、今日めちゃくちゃ後悔した……」
このロスを取り返すのは大変だ。明日からきちんと周囲を見まわっていかなければならない。
「……何を後悔したんだよ…。別に別れなくてもいいって言われたんだろ?」
声は、優しく、慎重だ。
「そういうことじゃないんだよ」
それに乗るかと、逆に、強く言い返した。
久川の考えが、あまりにも幼稚すぎて話にならない。
「そういうことじゃないんだよ! なんでそれを分かってくれないの? 分からないからこういうことになったんじゃない!!」
違うのよ…本当に……。別れるとか別れないとか、結婚するとかしないとか、そういうことじゃ全然……。
重要なカウンターが崩壊しそうだなんて、そんなこと、あってはならないということがどうして分からないの……。
「分かるように説明してくれよ。どういうことなのか。全然納得いかない」
あぁもう……なんで私はこんな人に抱かれたんだろう。
「………、………」
説明したくもない。
「カウンターの人が俺と付き合ってることを嫌だと思ってるんだろ? それは嫉妬なんだろ? だから結婚して夫婦になればそれが普通になるだろ?」
それは確かにそうだ。だけど、今日感じたことはそうではなかった。
「………、今までの私が最高に良かったって言われた」
「……何?」
久川の怒りが感じられた。
「今までの私はすごく仕事に集中してた。だから、これからも同じように仕事がしたい」
「……関がそう言ったから? それは関のことが好きだからってこと?」
「全然違うよ」
もはやそのレベルの会話などしたくない。
「分かってないのよ、部門長の仕事が」
言いたくはなかったが、言わなければ話が終わらなかった。予想通り久川は黙る。
「………」
こんな話などしたくなかった。
同じ身分でありながら、自分の方が仕事を分かっていて、久川が分かっていないなどと、思い知らせたくはなかった。
「1回、関店長に聞いてみたらいいよ。本当に自分の仕事ができてるのかどうか。私も、ギリギリのところで出来てないって教えてくれた。これ以上後になると危なかった」
「………」
「役職に拘らない方がいいとは思う。だけど、普通に仕事ができてるのかどうかも聞いといた方がいい」
「………」
こんなこと、本当に言いたくはない。
「やめよう、本当に。多分、周りが見えてたようで、見えてなかったんだと思う」
ようやく、理解してくれたのか、
「……そんな急には無理…」
久川は、受け入れがたいという答えを出した。
「私は、1つ課題を与えられてる。悪いけど、プライベートなことに気持ちを割く余裕はないと思うから」
久川があまり押してこなくなった瞬間、惜しい気持ちも若干出てくる。だけど、ここを乗り越えないといけない。
「何、課題って……」
もう既にどうでもよさそうに聞いてくる。
まだその課題が何かすら教えてもらってはいないが、その話は関とだけしたい。
「他の人も関わってるから言えない。異動も絡んでるから」
「………」
溜息を吐かれた瞬間、この世から消えて欲しいとまで思った。
「………」
本当に、後悔した……その一言をもう一度ぶつけたかったが、今はそんなことに体力を使うのも億劫だった。