この人だけは絶対に落とせない

 目は何度か覚めていた。背中が痛いし、膝から下がだるいし。なんだか臭い。

 だけど、わけが分かっているので、身体を持ち上げることはしないまま、朝になった。

 日が昇ってくる。今日の出社は12時50分から22時+閉店作業。まだ辞令が出ていないので風見が8時50分出社でいるはずだ。

「………」

 スマホの時計は6時50分。まだまだ時間はある。

 昨日、ビール2杯で酔い潰れて、市瀬の車で横になり、公園の駐車場で朝まで過ごした。

 帰りがけ、何度も家はどこ?と聞かれたが、その時は頭が痛くて説明もできないほどだった。

「もう絶対男と2人で飲みに行くなよ。三好の誘い断って正解だったよ」

 このセリフも記憶はある。

 温かい毛布をかぶせてくれた。だけど、途中で

「やっぱ寒いから半分貸して」

と、毛布を横にして2人で被った記憶もある。

「はあ……」

 さすがに起きなければと、身体を起こした。が、気持ちが悪くて起き上がっていられない。

「……起きた?」

 市瀬が脂ぎった顔で、シートの上で横になったまま、こちらを見てくる。

「気持ちが悪い」

「吐きそうだったらすぐそこにトイレあるから」

 それは昨日も言っていたので分かっている。

「……昼から出社だ……」

「酒抜け。水飲んで」

 後部座席に無造作に置いてあったコンビニの袋から、水のボトルを1本取り出してキャップを捻ってくれる。

「……」 

 そのまま飲んだ。冷たい。そういえば何度か、車から出ていたな。

「もっと飲め。……家まで送るよ。家どこ?」

「え、まだ市瀬副店長も抜けてないでしょ」

「俺はとっくに抜けてるよ」

 エンジンをかける。

 途端にスマホが振動した。関 店長 と出ている。

「ちょっとエンジン停めてください!関店長からだ」

 市瀬はすぐにエンジンを停め、桜井も受話ボタンを即押した。

「もしもし」

 頭を上げたくはなかったが、上げないと話になりそうになかった。

『早くに申し訳ない。今日のシフトのことだから、早めがいいかと思って。寝てた?』

 気遣ってくれているが、早口だ。

「いえ、大丈夫です!」

 全く大丈夫ではない。

『風見が今日から出社しないことが決まった』

「えっ!?」

 頭を振った途端に、気持ちが悪くなり、慌ててシートに頭を着けた。

『シフトが変更になる。新たな副部門長が決まるまでは桜井1人だ』

「まじですかー」

 自分の、あり得ない一言に、慌てて起き上がり、

「ほ、ほんとですか!?」と言い直したが、関は笑って、

『マジです』

と言う。

『だから、今日も朝から出社でいてほしい。その後は今日考える』

「………」

『悪い、朝からかけて。番号知らなかったらもうそのままにしておくつもりだったけど、そういえば教えてもらったから』

「………。ちょっと待って下さい」

 ドアを開けてそのまま外に出た。数歩歩いて、振り返ってみる。

 とても、今化粧をして出かけられるような状態ではない。

『……車?』

 ドアの音で気付いたようだ。

「………すみません。なんっとか定時では出社できるようにはしたいんですけど……。ちょっと体調が……」

『あ、体調悪いの』

 関が黙ったので、

「は、吐き気が酷くて…眩暈もして……」

『1人で大丈夫?』

 何故かそんなことを聞かれたので、

「だ、大丈夫です! 友達もいますし!」

 と、答えた。

『分かった。それなら大丈夫だよ。連絡して悪かった。桜井も自分の体調次第で休んでいいから』

 最悪なことを言わせてしまっている。

「すみません…出来る限り行きます……」

 電話は簡単に切れた。

 涙が出た。

 何が仕事以外だ……仕事をしながら仕事以外をしていると、碌なことにならない。

「どうした?」

 市瀬がハンドルに腕をかけたまま、心配そうに聞いてくる。

「………色々、あって……」

 溜息は深い。

「今日の出社のこと?」

「……酔ったことないからこんなに酔うと思ってなかったし……」

「いいから水飲め」

 飲みたくはないが、言われるがままに水を飲む。そのせいで逆に吐きそうだ。

 市瀬は窓を全開にしたかと思うと、ポケットからタバコを取り出し火をつけた。

「……」

 こちらを全く見ず、どこか遠くを見つめている。

「今日、なんて?」

 市瀬は手を車の外に出したまま、顔だけこちらに向けた。仕事の顔になっている。

「……風見副部門長が今日から来ないから、とりあえず今日朝一時間早く来れたら来て欲しいって」

「今日から来ない、とは?」

 これは、完全に知らない顔だ。

「異動ですよ。地方の倉庫に」

「地方の倉庫!」

 市瀬は目を見開いてこちらを見つめた。

「……その理由、知らなかったんですか?」

「知らない」

 真顔で言い切る。

 社員は裏があるとかどうとか言ってたのは、単なる一般論か……市瀬を高く買い過ぎていたのかもしれない。

「神条さんとの不倫ですよ」

「嘘!!」

「ほんと」

 市瀬は微動だにせず、固まった。

「私も気が付きませんでした。関店長に、カウンターの中をよく見た方がいいと言われてずっと気にしてましたが、分かりませんでした。それくらい、秘密裡にしてたとは思います。だけどそれが本社にバレて」

「えー、マジかあ……なんか彼氏がいるというのは聞いてたけど、それがまさか風見副部門長とは。誰も気付いてないだろう」

「そうそこなんです」

 桜井は、身を乗り出した。

「神条さんは異動にはなりません。それは、色んなしがらみがあって異動できないような雰囲気でした。だから、その不倫の話が公になったらカウンターで生きて行けなくなるのでこのまま誰にも知られずにいくしかない。そして、カウンターからはみ出ないようにしとかなきゃいけない…」

 話すと頭が回りはじめてくる。

「……でも、今回は公にならなかったから、神条さんの異動が出なかっただけで、何か公になったら本社も異動させるしかない。だから、桜井が気遣うことじゃないだろう」

 そこは考え方が若干ズレた。

「異動させればいいという問題ではないんですよ」

 これは桜井自身の自論だった。

「常にフラットに平和に、暇にしておく。それがカウンターで大事なことなんです。もちろん、私が神条さんを見張ることはできないし、そんなことはしません。だけど、穴が空いたから埋める。穴が空いたから埋める、では、凸凹になるだけなんです」

「………」

「風見副部門長の後を埋めるのだって大変です。風見副部門長が何故そんなことになったのか、という話で持ち切りになってそれを払拭しなければならないんですから」

「……そんなにカウンターって怖いの?」

 市瀬はようやく問いかける。だがふっと、関を思い出した桜井は、

「まあ、考えるだけ無駄なことも多いんですけどね」

と、さらりとかわして目を閉じた。




 水を飲めるだけ飲んで、シャワーも浴びて湯船にも浸かって、食事を摂らずに来た桜井は、つまり、ふらふらでなんとか8時50分前の出社にこぎつけた。駐車場には車が既に数台停車している。その中に関の車もあった。

 関は今日は休みのはずだったので、風見の異動のためのシフト変更のために出勤しているものだと思われる。

 そういえば一時期は休日は絶対に姿を見せなかった関だが、ここ一年ほどで時々私服を披露するようになったことを思い出し、後ろ姿の私服がいらぬ想像を働かせてしまいそうだったので、それを忘れるように店長室に入った。

「おはようございます。朝はご心配をおかしてすみませんでした」

 頭を下げた。

「あぁ……ごめんね。電話しなかったら無理して来なかったのに」

 心の内を見透かされて、返す言葉が出なかった。

「……だいじょうぶです」

「調子悪くなったら、休憩するなり、帰るなりしてね」

「はい……」

 もうここまで来たら大丈夫だろうと思う。

「風見副部門長の件、急でしたね」

「うん。次の人がまだ決まってないしね。どうするんだろうなあ…。それまでに本社から応援もらえるといいんだけど」

 ふと、本社に栄転した緋川のことを思い出した。

 それほど、接点はなかったが、もしあの人がフォローで来てくれるのなら随分助かる。
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