元社長秘書ですがクビにされたので、異世界でバリキャリ宰相めざします!【番外編】
「今日は私の愛する妻がウィーンで最後に楽しむ晩餐だ。私は今夜が彼女にとって忘れられない夜になるよう、新しくて素晴らしいケーキを作るように命じ、彼は期待に見事に応えてくれた。若き天才菓子職人フランツ・ザッハーに拍手を」
白磁の皿に載せられたのは、スポンジをチョコレートでコーティングされたケーキだ。アプリコットのジャムが挟んであり、酸味と苦みと甘さが舌の上で心地よく溶ける。
表面を覆うチョコレートフォンダンの食感が独特で、添えられた軽いホイップクリームとの相性も抜群だった。
客達は口々に新しいケーキを褒め称え、若い菓子職人に称賛を贈った。
ツグミは大きく目を見開いたままケーキを口に運び、感激に胸を震わせる。
「どうだ、きみのための特別なケーキは」
隣の席から尋ねられて、ツグミは満面の笑みを浮かべた。喜びで目頭が熱くなる。
「おいしいです……! きっと……きっと、二百年経ってもウィーンが誇るような、素晴らしいケーキです!」
珍しく仕事以外で興奮した様子を見せるツグミに、メッテルニヒが一瞬キョトンとする。けれどすぐにフッと表情を和らげると、微かに頬を染めて目を細めた。
「きみのためのケーキだ。帰ったらまた作らせよう。だから必ず、またここへ帰っておいで。一緒にケーキを囲む日をいつまでだって待っているから」
夫を見つめるツグミの目から、ひと粒だけ涙が落ちた。指折り楽しみにしていた外遊、よそ見などしたことがない夢への道。そんなツグミの心に初めて、(ああ、この人と離れたくないな)という思いが湧いた。
メッテルニヒは愛おしそうにツグミを見つめ、零れた涙を人差し指でぬぐった。それはとても少しの時間と、とても自然な動作で、周囲の客は誰も気づかない。
それでも確かに、この瞬間に――長い長い歴史の中に刹那存在した、ツグミとメッテルニヒの夫婦の時間であった。
――【ザッハトルテ】
ウィーン発祥の、世界でもっとも有名なチョコレートケーキ。1832年にオーストリアの宰相メッテルニヒが「特別な客のために」と、当時16歳だった菓子職人フランツ・ザッハーに作らせたといわれる。
イギリスへ向かう船の甲板の隅で、ツグミは電子辞書でザッハトルテの項目を調べる。「ふーん」と呟いた口の中に、あの日の甘さが甦るような気がして、胸が温かくなった。
人目につかぬよう閉じた電子辞書を懐にしまい、船上の空を見上げる。初夏の快晴の空は、イギリスにもウィーンにも繋がっているだろうか。
ツグミの人生は永遠に続く。忘れたくない人も忘れたくない思いも沢山あるけれど、悠久の時の中でそれらはいつか霞んでしまうかもしれない。
けれど、メッテルニヒがあの日くれた妻への想いは、歴史が覚えていてくれるだろう。
眩しい陽光に手をかざし、ツグミは微笑む。
自分がこの世界に来た意味を、またひとつ見つけられたような気がした。
【ende】
白磁の皿に載せられたのは、スポンジをチョコレートでコーティングされたケーキだ。アプリコットのジャムが挟んであり、酸味と苦みと甘さが舌の上で心地よく溶ける。
表面を覆うチョコレートフォンダンの食感が独特で、添えられた軽いホイップクリームとの相性も抜群だった。
客達は口々に新しいケーキを褒め称え、若い菓子職人に称賛を贈った。
ツグミは大きく目を見開いたままケーキを口に運び、感激に胸を震わせる。
「どうだ、きみのための特別なケーキは」
隣の席から尋ねられて、ツグミは満面の笑みを浮かべた。喜びで目頭が熱くなる。
「おいしいです……! きっと……きっと、二百年経ってもウィーンが誇るような、素晴らしいケーキです!」
珍しく仕事以外で興奮した様子を見せるツグミに、メッテルニヒが一瞬キョトンとする。けれどすぐにフッと表情を和らげると、微かに頬を染めて目を細めた。
「きみのためのケーキだ。帰ったらまた作らせよう。だから必ず、またここへ帰っておいで。一緒にケーキを囲む日をいつまでだって待っているから」
夫を見つめるツグミの目から、ひと粒だけ涙が落ちた。指折り楽しみにしていた外遊、よそ見などしたことがない夢への道。そんなツグミの心に初めて、(ああ、この人と離れたくないな)という思いが湧いた。
メッテルニヒは愛おしそうにツグミを見つめ、零れた涙を人差し指でぬぐった。それはとても少しの時間と、とても自然な動作で、周囲の客は誰も気づかない。
それでも確かに、この瞬間に――長い長い歴史の中に刹那存在した、ツグミとメッテルニヒの夫婦の時間であった。
――【ザッハトルテ】
ウィーン発祥の、世界でもっとも有名なチョコレートケーキ。1832年にオーストリアの宰相メッテルニヒが「特別な客のために」と、当時16歳だった菓子職人フランツ・ザッハーに作らせたといわれる。
イギリスへ向かう船の甲板の隅で、ツグミは電子辞書でザッハトルテの項目を調べる。「ふーん」と呟いた口の中に、あの日の甘さが甦るような気がして、胸が温かくなった。
人目につかぬよう閉じた電子辞書を懐にしまい、船上の空を見上げる。初夏の快晴の空は、イギリスにもウィーンにも繋がっているだろうか。
ツグミの人生は永遠に続く。忘れたくない人も忘れたくない思いも沢山あるけれど、悠久の時の中でそれらはいつか霞んでしまうかもしれない。
けれど、メッテルニヒがあの日くれた妻への想いは、歴史が覚えていてくれるだろう。
眩しい陽光に手をかざし、ツグミは微笑む。
自分がこの世界に来た意味を、またひとつ見つけられたような気がした。
【ende】