15年目の小さな試練
 晃太くんはピアノのふたを開けると、ポーンポーンと数音鳴らした。

「やっぱいい音! スタインウェイのアップライトとか、贅沢だよな〜。おじさん、もしハルちゃんがピアノ続けてたら、絶対にグランドも用意したよね?」

「そうかな?」

 スタインウェイがいいピアノらしいくらいの知識しかないわたしには、嬉しそうに語る晃太くんの言葉の意味は半分くらいしか理解できなかった。

「晃太くんのピアノはグランドピアノだよね?」

 カナのお家には、晃太くん用のピアノの部屋がある。それとは別に、居間にはアップライトピアノ。

 練習に夢中になると、昼夜関係なしに弾き続けるその音に、お義母さまが参ってしまい、防音のピアノ室を作ったと言う。曲の練習ならまだしも、曲にすらなっていない運指の練習なんかを何時間もされるとたまらないらしい。

 今でこそ、そこまで弾き込むこともないみたいだけど、中高生の頃は本当に、毎日4時間とか5時間も練習していたと聞いた。
 その凄まじい練習時間を聞いただけで、わたしにはピアノは無理だとため息しか出ない。そんなに練習する人はそういないと聞いても、4時間どころか、毎日30分も無理だったのだから、やっぱりピアノは無理だったんだ。そう思うと、弾いてもらえない我が家のピアノが気の毒になってしまう。

「確かに俺のはグランドだけど、このアップライトのが音はいいかも」

 まさかと言いたいけど、ピアノの音の聴き分けはわたしには出来ない。晃太くんがそう言うなら、もしかしたらそう言うこともあるのかも知れない。

「で、何がいい?」

「えっとね、じゃあ、子犬のワルツ!」

 わたしの言葉に、晃太くんはくすりと笑った。

「ハルちゃん、好きだよね」

「うん。ショパン好き」

「変わらないなぁ」

 そう言って笑いながら、晃太くんは飾り棚を開けて楽譜を物色。
 ザっと中を確認した後、椅子に座ってすっとピアノに向き直った。

 トントンと肩を叩かれて振り向くと、カナが椅子を用意してくれていた。勧められるままに座った瞬間、広がるキラキラ輝く音の洪水。

 気がつくと誰も喋ってなどいなくて、わたしは特等席で楽しげに跳ね正確に鍵盤を捉える指先を観て、そこから紡ぎ出される音楽を聴き、ピアノのすぐ隣で全身を音楽に包み込まれるという最高の時を過ごした。
< 30 / 341 >

この作品をシェア

pagetop