一筆恋々

【三月十七日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓
学校から戻りましたら、わたしの元に春の知らせが届いておりました。
今日いらしてくださっていたのですね。
不在にしていて申し訳ありませんでした。

慌てていらしたと聞きましたが、淡雪さんに何か言われたのでしょうか?

ちよさんに預けたお手紙、拝読いたしました。
ひどいお手紙でしたね。
鞄を机代わりにその場で書かれたそうですが、それにしてもあんなにひどいお手紙、見たこともございません。
読みにくくて、汚くて、けれどこれまでいただいた何よりも素敵なお手紙でした。

わたしはずっと、静寂さんのお心に届くような素晴らしいお手紙を書こうとしてきました。
また、嫌われないように負担のないお手紙を書こうとしてきました。
どちらも間違っていたのですね。

どんなものでも慕わしい方からのお手紙はうれしい。
それが素直に自分を想ってくださっている内容であれば、とりわけうれしいのです。

たとえ、学校の板書を書き付けた藁半紙(わらばんし)の裏側でも。
間違いだらけであちこち黒く塗りつぶされていても。
力が入りすぎて、ペン先の穴がいくつも開いていても。
あれはわたしの生涯の宝です。

静寂さんと入れ違いに、淡雪さんが父のところへ交渉にいらっしゃっていました。
久里原様のご意向ではなく、淡雪さんおひとりで。

淡雪さんは、持参金ではなく融資という形でお金を借り入れたい。自分が店を継いで必ず返すから婚約は破棄してほしい、とおっしゃったそうです。

わたしを貰えば返さなくていいお金をむざむざ捨てるなんて、と淡雪さんにも申し上げました。
けれど、淡雪さんにもご結婚されたい方が別にいらっしゃるのですね。
横浜にある小間物屋の次女の方だと伺いました。
「商いのことなど何も知らないあなたより、商売上手な彼女をもらえば、借金を返して尚余りある益を得られます」と言われてしまいました。

もちろん、淡雪さんのおやさしい心遣いだとわかっていますけれど、半分くらい本心だと思います。
商魂逞しい方ですから。

それなのに淡雪さん、父には「許嫁が弟に気持ちを残していて傷ついた。悋気(りんき)の強い質なので仕事も手につかず、売上も落ちた」なんて、ぬけぬけとおっしゃったそうですよ。
それで当初予定していた持参金の倍額の借入を約束させたのですって。
本当に口の達者な、根っからの商売人ですね。
ご立派な跡継ぎで、久里原呉服店は安泰でございましょう。

「目障りだから、そのまま弟に嫁がせてほしい」とおっしゃったと、苦笑いしながら父が申しておりました。

静寂さん。
わたしは確かに恵まれた育ちだと自覚しておりますが、それでもお姫さまか何かと勘違いされていませんか?
わたしはそんなご立派な身分ではございません。
姉の仕立て直しを着て、炊事も洗濯も女中さんと一緒にやってきたような庶民暮らしです。
だから「良い事など何も無い」などとおっしゃらないでください。
あなたの隣で見る世界がどれほどうつくしいか、ご存じないでしょう?

おとなしくお返事を待つつもりでこのお手紙を書きましたが、やっぱり会いに行きたいと思います。
いえ、このお手紙を出したら、そのまま会いに行きます。
きっとお手紙が届くより早く、わたしは静寂さんの元に着いているはずです。

どうか両手を広げて待っていてくださいませ。
そして二度と離さないと約束してくださいませ。
ずっと一緒にいてください。
他のひとに心を移さないでください。
わたしより長生きしてください。

あなたの手を取りに、いま参ります。


大正十年三月十七日
手鞠
いとしい静寂様


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