一筆恋々

【五月十九日 手鞠より駒子への手紙】


前略
八束さまには驚かされました。
あの方の執念をもってすれば、枯れた柿の木に赤い蜜柑を実らせることもお出来になるのではないですか?
いったいどのような媚薬をお用いになって、英子爵を説き伏せたのでしょう。

子爵から正式に縁談を申し込まれ、父もかなり戸惑っているようです。
本来ならばもう決まった縁があるから、とお断りするところですが、お相手がお相手です。
華族様から、しかもお家を背負うご長男の縁談を是非に、とおっしゃるのですから、その場ですぐにお断りすることはできなかったようです。

姉はうれしそうでもあり、不安そうでもあります。
まともに考えるならば、顔合わせが目の前に迫ったいまになって、お話が流れるなどあり得ません。

しかし父は迷っているようなのです。
「迷う」ということは、八束さまを選ぶ見込みもあるということで、わたしはそのことにも驚いています。

また、もしも久里原さまが了承して、姉が子爵家に嫁ぐことになったとしたら、姉はとても苦労するのではないかと思うのです。
嫌な思いもたくさんするでしょう。
それなら一時の恋などあきらめて、平穏な人生を選んだ方がいいかもしれません。

どこを向いても完全にまるい幸せなどなく、すっかり迷子になっています。


大正九年五月十九日
手鞠
駒子さま



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