一筆恋々

【三月二十一日 手鞠より駒子への手紙】


きのうは本当にごめんなさい。
焼きたてを食べていただきたかったのに、まさかそれが裏目に出るなんて思いませんでした。
欲張ってチョコレートを入れすぎたのがいけませんでしたね。
あんなに手が汚れるなんて。

つぎからビスケットにはお箸をつけますので、こりずにまたいらしてくださいね。

さて八束さまのお話ですが、「心も身体も勝手に引き寄せられる」とおっしゃったのですね。

わたしに恋の経験はございませんが、恋とは恐ろしいものです。
半巾(はんかち)を落としただけで身の破滅を招くなど、誰が思うでしょう。
わたしはその女性に同情を禁じ得ません。

うっかり男性の前に落として一目惚れされないよう、半巾は包みの最奥に固くしまうことにしました。
とても不便です。

勝手に引き寄せられるならば、英子爵邸のあの立派な(ひのき)の一本柱に縛りつけてしまってはいかがです?
ご存じの通り当家は紡績業を営んでおりますゆえ、駒子さんのご所望とあらば、八束さまの命果てるまで縛っておけるだけの糸をご用意できると思います。
ご入り用の際は、なんなりとお申し付けくださいませ。

ところで(らん)姉さまの婚約が内々に決まりました。
お相手は久里原呉服店(くりはらごふくてん)のご次男で静寂(しじま)さんとおっしゃる方です。
久里原呉服店は古くからお付き合いのあるお家ですが、静寂さんのお祖父さまにあたる先代がかなり放蕩されて、援助の手を求めていらっしゃるようなのです。

ご長男の淡雪(あわゆき)さんと姉との縁談のお話が以前からあったのですが、淡雪さんが単身欧州に行かれたきり行方がわからなくなり、このたび静寂さんとの婚約と相成りました。

静寂さんはまだ大学生で来年の八月に卒業される予定ですが、祝言はその前に挙げるようです。
そして卒業後にお店を継ぐこととして父もお受けしました。

こんな日がいつか来るとはわかっておりましたが、したしい姉がいよいよ嫁ぐと思うと、口ではお祝いの言葉を伝えていても、心のうちでは憂いを感じています。
またそれ以上にわたしはわたし自身の未来が不安でなりません。
わたしも姉と同じように、いつか父からお相手の名を告げられる日がくるのですから。

そう考えると見慣れた海老茶の袴も、いやでいやでたまらない課題も、なんだかいとおしく感じます。

書いていて思い出しました。
英語の課題がまだ終わっていません。
前言に反して全然いとおしくはありませんが、いまからがんばります。


大正九年三月二十一日
春日井 手鞠
英 駒子さま



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