一筆恋々

【三月二十八日 手鞠より駒子への手紙】


春霞というと雅な響きがありますが、その実、うすぼんやりとして少し気鬱になりそうな空模様がつづいていますね。
それは自然の仕業ゆえ仕方のないことだとしても、駒子さん、「悦美(えつみ)さんの撮られた写真のよう」と言ってしまうのは、あんまり正直すぎませんか?
こみ上げる笑いをこらえ切れませんでした。

あのリリプットカメラ、かなりいい物を買っていただいたと思いますけれど、悦美さんはなぜ空ばかり写すのでしょうね。
「ふたつと同じ空はないの」と言うけれど、それなら英語の蓬野(よもぎの)先生のお(ぐし)だって、二度と同じ日なんてありませんのに。
今日だって昨日よりもさらに右に傾いていらっしゃいましたよね。

さて八束さまのことですが、近ごろ馬車に衝突されて、頭にお怪我でもされたのでしょう。
きっとそうです。
そうでなければ、わたしをご指名で恋愛相談を持ちかけるなどという暴挙に出るはずありませんもの。

八束さまがお座りになったとき、さりげなく頭の後ろのあたりをお確かめください。
大きな傷があるはずです。

八束さまには「手鞠は恋愛においてさしたる経験を持ち合わせておりませんので、お力にはなれません」とお伝えください。
それから「手鞠はあくまで駒子さんの味方ですので、駒子さんを困らせる方はどなたであっても許しません」とつけ加えてください。

川の南側では桜が満開だそうです。
女学校の桜も今週末が見ごろですね。

季節の変わり目にはひとは不安定になるものと聞きます。
うるわしい桜に惑う八束さまのお気持ちもはやく落ち着くといいですね。


大正九年三月二十八日
手鞠
駒子さま



< 3 / 116 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop