一筆恋々

【十一月二十九日 手鞠より駒子への手紙】


拝啓
今年もあとひと月ほどで終わりですね。
今夜は雪が降ってもおかしくないので、火鉢の準備に追われました。
こうしてお手紙を書いていても、指先がかじかんできます。

静寂さんのお兄さま、淡雪さんが帰国されていました。
洋服生地を求めて欧州に渡っていた淡雪さんは、広く亜細亜の織物や刺繍にも興味を持たれて、だいぶ遠くまで足を伸ばされていたらしいのです。

この情勢下に欧州をふらふらしていたなんて、よくご無事だったと思います。
先だっても、露西亜の方で、日本人や露西亜人が大量虐殺されたという新聞記事を見ました。
あのような報道を目にして、静寂さんはきっとお辛かったろうと思います。

ところが淡雪さんはといえば、寄越したお手紙には、ご自身のことより印度綿(インドめん)について長々と書いていらしたらしいのです。
静寂さんは不満そうな口振りでしたけど、珍しく饒舌で、本当にうれしそうでした。

淡雪さんは先月帰国されて、いまは横浜に滞在されているらしいのです。
数日中にはこちらへ戻って来られるので、そうなれば改めてご挨拶に伺います。

そういえば、菜々子さんはご婚約を取り止めて、進学が認められたそうですね。
音楽学校は実技の試験が難しいと聞きますが、あんなに努力しているのだから、きっと大丈夫。

気が早いけれど、お祝いにみなさんで四季彩館に行こうと話しています。
駒子さんもぜひ。
敬具


大正九年十一月二十九日
春日井 手鞠
英 駒子さま


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