クールな専務は凄腕パティシエールを陥落する
「本日、顧客から大口の注文依頼を受けてしまいました。オーナーと話をして、それをle sucreでの最後の仕事にしようと思います」

今日の昼間に和生が愛菓の引き抜きを仕掛けた時には頑なに拒否をしていた愛菓だったが、実は、少し前から健一に和生の話に乗ってはどうかと言われていたらしい。

佐藤オーナー夫妻が愛菓を大事に思い、店をここまで大きくしてくれたことに感謝していることは紛れもない事実だ。

しかし、優吾夫妻が戻ってきてからは、話はそう単純なことではなかった。

元々ネガティブ思考の優吾の妻、美佳は、美人で有能な愛菓に引け目を感じていた。

佐藤夫妻にも可愛がられ、幼馴染みの優吾も一目おいている。

イタリアから帰国した優吾が連れてきた嫁、美佳の羨望の眼差しと、極度なネガティブ思考。

空極のマイペースの愛菓ですらわかってしまうほどに、美佳のコンプレックスは深かった。

そんな中、美佳の妊娠が発覚。

マタニティーブルーが加わり、スイーツ作りにすら手を出せなくなった美佳の弱りっぷりは見ていられないほどになった。

『愛菓ちゃんがこの店を去るのは正直痛手だ。君に心の底から感謝しているのも本当。だけどね・・・』

言葉をつめた健一が紡いだ一言で、愛菓の心は決まったという。

『美佳ちゃんは大事な家の家族なんだ』

いつも通りにクールな表情の愛菓だったが、少し悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。

「オーナー夫妻には本当にお世話になりました。彼らが大切な美佳さんを、私がないがしろにするわけにはいきません」

和生は黙って愛菓の言葉を待った。

「だから、こうしてオーナー夫妻に役に立ちながら独立できる機会を与えてくださった和生殿には本当に感謝しています」

そう言った愛菓の瞳には、もう迷いは見られなかった。

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