次期国王は独占欲を我慢できない
「ちょっと、アリス。ここ、糸を間違っているわ」
「あっ。すみません」
「気を付けてね?同じような色でも、違うのよ。ホラ、よく見て。ちゃんと資料で確認してちょうだい」
「はい……。すみません」

 慣れたかな? そう思った頃に、失敗はするものだ。
 気を抜いているつもりはないのだが、結果的にはそういうことになるのだろう。
 突き返された制服を手に、アリスはポリポリと頬を掻く。

(失敗失敗……)

 アリスの仕事机には、分厚い資料が載っている。
 そこには、王宮勤め人の制服が生地の素材やボタンの種類、糸の色まで細かく指定されたものがひとつにまとめられたものだ。
 これは衣装部で働く人間の図鑑のようなもので、必需品だった。
 所々、印刷が雑で文字が読み取れない部分もあるが、そこは各自書き入れている。
 アリスは、修繕した侍女のページを開き、糸の項目に注意書きを書き加えた。
 こうして見ると、やはり侍女は王宮勤め人の憧れなだけあって、他の部署とは段違いに質の良い物が支給されているようだ。
 常に王族の方々と行動と共にするのだから、当然といえば当然かもしれない。
 アリスも、王宮で働くようになってから休憩の場所が一緒になったため、何度か見たことがある。貴族の中でも特に家柄のいい者が多いこともあり、遠目にも気品が漂っていた。

「さあ、今日はここまでにしましょう」

 次の修繕に取り掛かろうかとしたところで、声がかかる。
 窓から見える景色は紫色になっており、夕方になったことを示していた。
 それぞれが作業中だった服を畳み、机の上を片付ける。その中を、一番下っ端のアリスがカゴを持って回った。ゴミを回収し、一か所にまとめておくためだ。それを入口のドア近くに置いて置けば、朝掃除にやって来る清掃部が持って行く仕組みだ。

「アリス、これもお願い」
「はい」
「あ。これも捨てて」
「はい」

 カゴにはどんどんと処分する糸くずや布きれが溜まっていく。そのまま奥の机に向かうと、煌びやかなドレスが目に入った。
 アリスや、ジゼルなど若手の衣装部員は、制服の修繕や新調が主な仕事になる。が、奥の机で作業するベテランは、王族の衣装を修繕したり装飾を増やしたり、王族個人のドレスを縫うこともあった。
 濃いピンク色の華やかなドレスをトルソーに着せて、全体を眺めているのは、衣装部責任者のポリーヌだった。

「素敵なドレスですね」
「これ?ベアトリス王女殿下の物よ。生地もレースも流行の最先端」
「オシャレな方なんですね」
「そうね。そして、とても個性的な方よ。単なる流行りに乗るだけの方ではないの」

 大きく胸のあいたドレスだが、ふんだんに使われたレースのせいか、そんなにいやらしくは見えない。それでもトルソーの胸の部分がだいぶ見えてしまっている。かなり大胆なデザインだ。着る人を選ぶデザインだな、とアリスは思った。

(少なくとも、私の寂しい胸ではダメだわ)

 思わず自分の胸を見下ろし、苦笑する。
 ベアトリス王女殿下は、アリスと同じ年とはいえ、とても女性らしい体つきのようだ。

「アリス、隅に寄せてある布は全部カゴに入れてちょうだい」
「はい。――えっ、これ全部ですか!?」

 最新の、最高級という光沢のある生地が、端切れとはいえたっぷりと机の隅に置かれていた。それを手に取るも、カゴに入れられずに見ていると、横からプッと吹き出す音が聞こえた。

「もう……あなたって本当におかしな子ね。いいわ、欲しいのなら持って帰っていいわよ」
「えっ、いいんですか?ありがとうございます!」

 アリスは不要の端切れやレースを、練習用にとよく貰って帰っていた。それをポリーヌも知っていたようだ。

「構わないわ。でも、何も作れない大きさよ」
「そんなことないですよ。何かは作れます。ありがとうございます!」

 ポリーヌの気が変わらない内にと、アリスはいそいそと自分の机に戻った。


 * * *


 仕事が終わり、宿舎に戻る途中で名前を呼ばれたような気がして、アリスは立ち止まる。
 ここは王宮を通用口から出て、庭園の横を抜ける小道だ。このまま真っすぐ行くと勤め人の宿舎があり、さらにその奥が、以前仕事場だった騎士訓練所、そして厩舎となっている。
 アリスは声の主を確認しようと辺りを見回すが、そこには誰もいない。
 空耳だろうか? 首をかしげながら再び歩きだすと、大きな木のそばにさしかかったところで、急に横から出て来た手に腕を引っ張られた。

「きゃあ!?」

 突然のことで抵抗らしい抵抗もできず、アリスは身体のバランスを崩した。その肩を大きな手がぐっと抱きしめる。
 ゾゾゾッと背中に嫌悪感が走り、なんとか逃れようと更に声を出そうとすると、逆の手で口を覆われてしまった。

「んーーーー!んんんーーーー!!」
「アリス、俺だ。力を抜いてくれ」

 聞き慣れた声が耳元で聞こえ、嫌悪感が一気に去る。
 声のした方に視線をやると、自分を見つめる紫の瞳と出会った。
 一気に心臓が飛び跳ねる。
 抵抗をやめると、黒尽くめの青年はアリスから手を離した。
 離して欲しくて声を出そうとしたのに、相手が彼だとわかった瞬間、今度は手が離れていくのがなんだか寂しい。そして、そんな自分がとても滑稽で、そしてそんな複雑な感情を持っているのが自分だけのような気がして、アリスはとても悔しかった。
 なんとか落ち着こうと、呼吸を整える。
 胸に手を当てると、急に引っ張られた驚きなのか、それとも彼に会った喜びなのか、やけに鼓動が騒がしい。だが、そんなアリスに気づいていない様子で、黒尽くめの青年は爽やかな笑顔を見せた。

「ごめん、脅かすつもりはなかったんだ」
「驚くよ!さっきまで誰もいなかったのに、急に引っ張るんだもの」
「そうだよな」

 そう言いながら、青年はまたアリスの肩に手を乗せた。それは軽い接触だったが、アリスの心臓はバクバクと忙しなくなる。だが、青年を見上げてみると、彼は先ほどまでアリスが歩いていた小道を見ていた。
 話し声が聞こえる。誰かがやって来たのだろう。この小道は、王宮と宿舎の最短経路だ。きっと、アリスと同じように仕事を終えた勤め人が、宿舎に戻るのだろう。
 声が大きく聞こえるところから、近づいてきているようだ。話し声に聞き覚えはない。とことどころ耳に入る会話も、いたって普通の世間話だ。なにかあったのだろうか?声が更に近づくと、青年はアリスを柱の影に押し込めるように隠した。そこでアリスはやっと気づいた。

(そうだ。彼は密偵なんだ。あまり姿を見られてはいけないんだ……!)

 密偵とは、主人や組織のために、自分を殺し、隠して行動しなくてはならない仕事なのだ。やたらと人目についていいものではない。アリスは自分に言い聞かせると、話し声が聞こえなくなるまで、じっと息を潜めた。自分の存在で、彼を窮地に追いやることは嫌だった。

「……行ったな」
「ごめんなさい。さっきは知らなくて大声出しちゃって」
「いや、大丈夫。……それより、アリス。異動になったのか?」
「え?うん。そうよ?なんでも、衣装部が忙しいとかで……」
「いつから?」
「え?え~っと……」

 アリスは目をくるりと回し、指折り数える。

「十日位かしら」
「……そうか」

 ラウルがアリスを王宮で見かけたのが、大体その頃だった。予定が詰まり、なかなか会いに来ることができずにいたが、比較的早い内に気づけたようだ。

「新しい仕事は衣装部なのか?」
「ええ、そうよ。騎士訓練所で仕事をしていた頃から服を縫ったりはしていたから、仕事には慣れたわ」

 黒尽くめの青年は、時期外れの異動を心配してくれたのだろうか?だが、心配はいらない。
 訓練所の方が、服の傷みはひどい。だが、訓練所のメイドはどんな大きな破れでも、細かく丁寧に縫って、復活させてしまう。その腕前は職人技だ。そんな先輩たちから、数か月とはいえ鍛えられたのだ。衣装部の仕事にこんなに早く慣れたのは、彼女たちの指導のおかげだ。

「――誰か、接触して来なかったか?」
「は?誰かって、誰?」

 思いもよらなかった質問に、思わず素っ頓狂な声を上げる。すると、黒尽くめの青年は安堵したように小さく息を吐いた。

「……俺の考えすぎだったか」
「考えすぎ?なにが?どうかしたの?」

 小さな呟きを拾って、心配そうに眉を寄せたアリスだったが、青年はそんなアリスの頬を両手で挟み、まるで子供にするように、頬をぷにぷにとつまんだ。

「なんでもないよ。こんな半端な時期の異動だろう?なにかやらかして他に行くことになったんじゃないかって、思ってさ」
「し、失礼ね!そんなことしてないわよ。――今日、ちょっと失敗したけど」
「おいおい~。大丈夫か?陛下が着る服が突然袖が取れるとか、ないだろうな?」

 頬をずっと触られるのはドキドキするが、青年の口調がアリスの知るくだけた雰囲気に戻った。
 いつもの空気感にホッとするが、仕事ができない勤め人だとは思われたくない。

「そんなことしないわ。それに、私がやってるのは、まだお仕着せの修繕だもの」
「そうか。頑張れよ。いつか、ラウル殿下の物を作れるようになるかもしれない」

 それは別にどうでもいいのだが、青年がやけに笑顔なので、アリスもつい頷いた。

「慣れない仕事で戸惑ってるんじゃないかと思ったけど、安心した。――また、会いにきてもいいか?」
「う、うん。勿論よ。でも、もうこんな風に脅かさないでね」
「わかった。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」

 青年を見上げてそう言うと、一瞬紫の瞳がきらめいた気がした。
 外されかけた両頬に添えた手に、再び力がこもる。
 一気に近づいた青年の顔に驚いて、アリスが目を閉じると、おでこに青年の柔らかな唇が触れた。

「えっ……?」

 顔に熱が集中する。
 両頬とおでこに、自分のものではない温もりと感触が残る。
 けれども、それをアリスに与えた人物は、もう夜の闇に消えていた。

 一方、ラウルもまた、自分の行動に驚いていた。
 じっと見上げて「おやすみなさい」と言うアリスが可愛くて可愛くて、気が付いたら額に口づけていた。
 あのままアリスの前にいては、次は強く抱きしめてしまいそうで、なんとか手を離した。けれど、離した瞬間、両方の手のひらに残っていた温もりに、夜風が冷たかった。
 ラウルの心の中で、どんどんアリスが大きくなっている。それは嬉しくもあり、少し怖くもあった。

(異動は正当な理由があったか――)

 ラウルがアリスに興味を持ったこのタイミングだ。それを知った人の指示かと思ったが、これは偶然で、単なる時期外れの異動だったらしい。
 どうも、アリスのことになると調子が狂う。
 こんな勘が外れるとは――少し、過敏になりすぎてたか?
 ローランがこの姿を見たら、きっと「まだまだだな」と笑うだろう。それは悔しいが、自覚もある。
 今はとにかく、この熱を冷まさなければ……。
 ラウルは厩舎に向かった。

 アリスは資料と端切れが入った大きな布バッグを持ち、宿舎に着いた。
 それはいつもと同じことだった。
 宿舎の光景も、通りがかった食堂の様子も、すべてがいつも通りだった。

(このおでこの感触……。もしかして私、夢でも見てたかな)

 確認しようとしたら、もうそこには青年はいなかった。
 アリスは慌てて辺りを見回したが、やはり誰もいない。
 キスするだけして、こっちがポカンとしている間に消えるとは、一体どういうことなのだろう。
 考えれば考えるほど、これは夢だったのではないかと思えてきた。
 やっと部屋にたどり着き、ドアを開ける。すると、足元でカサリと音がした。

「ん?……なにかしら」

 しっかりした大きな封筒が、ドアの下に挟まっていたらしい。
 それは、お茶会の招待状だった。
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