悪の華は恋を廻る
 ゾフィは来る日も来る日もアーロンに会いに行った。
 アーロンは毎日をとても忙しく過ごしている。領地の隅々までを視察し、行く先々で会った領民には声をかけ、困ったことはないかと尋ねる。当主代行とはいえ、彼は少々働きすぎだとゾフィは感じていた。

(しかも……伯爵家はあまりうまくいっていないのかしら……?)

 今日は使用人がひとり、荷物をまとめて出て行くのを見た。
 使用人はアーロンに会わずに立ち去るつもりだったらしいが、そんな彼に、アーロンは特別手当を入れた封筒を手渡し、必要ならば紹介状を書くと励ましてさえいた。そんな彼の言葉に、涙しながらも使用人は屋敷を後にした。
 アーロンは、いつも人のために動き、人のために考える。そこにはいつもアーロン自身は置き去りになっていた。
 何度も、何人もがアーロンの前から姿を消しても、アーロンは自分を押し殺し、優しい言葉をかける。
 そんな彼を慕い、仕える者はいるが、その数は決して多くはない。情はあっても生活苦には勝てないのである。現に、果樹園で会うのはいつもアルバンだけだ。

(馬を借りた時に見た馬小屋もあちこち壊れていたし……)

 厩舎と呼ぶにはあまりにみすぼらしいその場所は、隙間風が入り、雨漏りであちこちに水たまりができていた。
 馬の手入れは行き届いていたが、それは優しいアーロンの性格を思えば理解できる。

(でも、厩舎があれではねぇ……)

 結局、アーロンの目を盗んでこっそり屋根を魔法で直したのだが、それだけで持ち直す状況ではなさそうだ。あまり劇的に変わってしまっては、不審に思われてしまう。思い切り魔力を使えないのが、こんなにももどかしいものだとは思わなかった。
 今、アーロンは果樹園の小屋でリンゴジュースの出来栄えを確認していた。外でアルバンが草むしりをしている。
 ゾフィはアルバンに近づくと、彼に話しかけた。

「アルバン。何をしているの?」
「あっ。ゾフィお嬢様! こうして雑草を取り除かねえと、木に行く栄養が少なくなっちまうんで」
「そうなの」
「へえ。今年は思った以上にリンゴが売れましたんで。来年はもっとこいつらにゃ頑張ってもらわんと」

 アルバンが見上げた先には、ゾフィが魔法で蘇らせたリンゴの木がある。その堂々とした佇まいは他の木々とは雲泥の差だった。

(やっぱりやりすぎたかしら……)

 だが、嬉しそうに木を撫でるアルバンを見て、まあいいか、と思った。

「アーロン様は働き者ね」
「へえ。ほんに、素晴らしい若さまです。私らもお役に立ちたいんですが……。なにせこんな状態で……。けんど、ゾフィお嬢様のようなお方がいらっしゃるなら安心です! あんなことがあって……皆心配しとったんです」
「あんな、こと?」

 ゾフィの問いかけに、アルバンはハッとしたように、口を押える。だが、簡単に諦めるゾフィではない。アルバンはなかなか先を話そうとはしなかったが、ゾフィがおだてたりなだめたりしていると、やっと重い口を開いた。

「若さまには、幼い頃から想いを通わせ合った婚約者がおったんですが……」

 アルバンは、まるで自分のことのように、苦悶の表情を浮かべて話し出した。

 * * *

 魔界で落ちこぼれ魔女という不名誉な二つ名がついたゾフィは、城の端に位置する北の塔にひっそりと暮らしていた。
 幼い頃に母は亡くなり、ゾフィが住む塔にやって来るのは腹違いの兄弟の一部と、数人の使用人。そんな中、常にゾフィのそばにいるのはジョルジュだけだった。
 私生児とはいえ、吸血族の名門の血を引くジョルジュは、他の兄弟からも執事の誘いがあったようだ。だが、なぜかそれらを断り、ゾフィに仕えていた。
 ゾフィはこのままジョルジュと塔でひっそりと過ごすと思っていた。優秀な兄弟と違って、役職に就くこともなく、忘れられた存在だと思っていたのだ。
 だが、ある日突然、父親に兄の仕事を手伝うよう申し付けられた。
 腹違いの兄、バシルは十四人いる父の子供たちの中でも群を抜いて優秀な、父自慢の息子だ。若くして死神の地位に就任したバシルだったが、なぜか他の兄弟とは違い、ゾフィのことを気にかけていた。ゾフィに仕事を紹介したのも、そんなバシルの働きかけからだった。

「ゾフィ、どうだろう。我の仕事を手伝ってはみないか」
「おしごと……?」

 急な申し出に戸惑うゾフィの前で、バシルはニカッと豪快な笑顔を見せる。
 いつも堂々としているバシルは、この家ではゾフィと正反対の存在だ。
 褐色の肌に白銀の短い髪を立たせ、性格も快活なバシルは、なぜかよくゾフィの元を訪れた。単なる物好き、もしくは暇つぶしだと思っていたため、仕事に誘われた時はゾフィもさすがに驚いた。

「私に……?」
「そうだ。いつも塔の中にいては面白くないだろう。我が外の世界を教えてやろう」
「できるかな」

 自信はなかったが、外に出られるのは嬉しい。ましてや初めての人間界だ。ゾフィははにかみながら、頷いた。
 ゾフィに与えられた仕事は、バシルの手伝いとして一緒に人間界に赴き、死者の魂を回収することだった。この時、人間界ではいつも以上に回収する魂の数が多く、人手が必要だった。ゾフィは、バシルが隊長として率いる中、ゾフィはバシルの手下のひとり、魔女のレイシスの分隊に入り人間界に向かった。
 アーロンに会ったのは、そんな時だ。

「行かないで! 僕をひとりにしないで! ルーチェ!!」

 身体の底から絞り出すような声が、ゾフィの胸に突き刺さる。
 ただ淡々と、魂を回収しては箱に押し込めていたゾフィは、初めて人間というものに興味を持った。

(この声は、一体、なに?)

 顔を歪め、涙を流しながら、動かなくなった少女の体を抱きしめるアーロンがそこにいた。
 彼の腕の中の少女は、既に冷たく、空っぽだった。だが、彼の心からの叫びが、少女の魂をその場に留めていた。
 淡い光に包まれた少女が、自身の亡きがらの傍に立ち、心配そうにアーロンを見つめている。

「ルーチェ! 嫌だ! 行かないで!」

 既に体を失い、幽体になっても引き留める程の強い想い。ゾフィは死してなお求められるこの少女を羨ましく思った。

「ゾフィ。なにをしているの? 早く回収しなさい」

 レイシスがゾフィに冷たい声を投げかける。長く艶やかな黒髪を掻きあげながら、ふっくらとした厚めの口を尖らせる。不機嫌そうなその姿も堂々として美しい。
 レイシスは一般家庭の出身だったが、その美貌と魔力の高さから、バシルの手下に抜擢された優秀な魔女だ。だが、ゾフィはレイシスが苦手だった。

「逃がしたらただじゃおかないわよ」

 焦れたように話しかけたレイシスのその目は、明らかにゾフィを見下している。バシルの前では上手に隠していたが、ゾフィの前では彼女を軽蔑していることを、隠そうともしなかった。

「今、やるわ」
「ぐずぐずしないで。まったく……こんな簡単な仕事もできないなんて」

 レイシスは呆れたようにため息をつくと、近くにいた魂を乱暴な手つきで拘束し、箱に閉じ込めた。

「……時間よ。ルーチェ・エルランジェ。あなたは私と一緒に、来なければならない」

 ゾフィが声をかけると、少女は静かに頷いた。

『最後に、祈らせてください』

 その願いを、ゾフィは叶えてやることにした。

『アーロン、生きて。もっと愛せる方を見つけて。生きて、笑って』

 そう言い、そっとアーロンの額に口づけを落とす。
 その瞬間、永遠の別れを痛感したのだろうか。アーロンの瞳からまた一粒、涙が落ちた。

「ルーチェ……。ルーチェ!!」

 あんな風に思われたい。あんな風に、誰かに必要とされたい。いつまでも塔の隅でひっそりと生きるなんて嫌。
 ゾフィの胸に、強い想いが芽生えた瞬間だった。


「幼馴染であり、婚約者でもあったルーチェ様が亡くなられてからというもの、伯爵家は不幸続きでして……」

 話すアルバンからも大きなため息が漏れた。

「不幸続き? 一体、なにがあったの?」
「へえ……。伯爵家は、ルーチェ様のお家である男爵家を援助されておったのです。ですが、男爵家のみなさんが不幸な事故でお亡くなりになり、婚姻を前提として渡されていた援助金はそっくりそのまま消えてしまったのです」
「それは……不思議な話ね」
「ですが、ゾフィ様をお連れになるほど、若さまも立ち直られたということですから。それはとても喜ばしいことでごぜえます」

 アルバンは笑顔を見せたが、その顔はやつれたうえに土で汚れており、生活の疲れが見える。

(やれやれ。アーロンといい、アルバンといい……人が好いにも程があるわ)

 ゾフィはそっと手袋を外すと、枯れ枝のようなアルバンの手を握った。

「いいえ。アルバンのような働き者が、アーロン様を助けているのよ」
「ゾフィ様……」

 突然手を取られ、驚きに目を見開いたアルバンだったが、すぐにその目は焦点が合わなくなり、とろりと夢見るような表情になった。

「でもね、私もアーロン様を助けたいわ。それには、アーロン様のことを色々知らなければならないわ。ねえ、アルバン。これからも私にアーロン様のこと、色々教えてくれる?」
「も、勿論でごぜえます……」

 そっと手を離すと、アルバンの顔色はほんのり赤く、血色が良くなっていた。

(うん。これ位ならいいわよね)

 満足げに頷き、アーロンのところへ向かおうと歩きだしたゾフィは、身体の異変を感じた。
 足元がぐらりとふらつき、慌ててそばの木を掴む。

「ゾフィ様! 大丈夫でごぜえますか?」
「え、ええ……。大丈夫」

(ほんの少し術を使っただけなのに……)

 こんなことは今までなかった。元々、魔力を持たないと判断されて父親に見限られた身だ。今更、ゾフィの魔力に疑問を持つ者はいなかった。ゾフィは塔に隔離されていたのをいいことに、好き勝手に魔法を使っていた。それは、今アルバンに対して使ったものの比ではない。
 ゾフィはぼんやりと手のひらを見つめた。
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