密偵をクビになったので元主のため料理人を目指します!
 真っ暗な闇を、意識だけが漂っている――

 暗転する意識に覚醒を促したのは犬の鳴き声だった。

「……んっ?」

 主様の執務室で倒れたはずなのに、目が覚めたのはベッドの上だった。

 ワン! ワンワン!

 元気な声の出所を探るために起き上がると、白くてモフモフとしたポメラニアンと目が合う。ベッドの下、足元付近で尻尾をふっていた。
 あれほど賑やかに騒いでいたはずが、目が合うなりぴたりと鳴き止んでしまう。まるで私を起こすために吠え続けていたようだ。
 誇らしげな表情で見上げてくるので、思わず頭を撫でていた。

「おはよう」

 口が勝手に動く。見知らぬ状況に戸惑っているはずが、命令を下さなくても身体は勝手に動いていた。私はいつもの事であるかように慣れた手つきで服を着替えていく。
 カーテンを引けば見慣れた庭が広がり、懐かしいと感じていた。

「そういえば、目覚ましは……」

 今日は鳴らないのかと時計を探していた。
 枕元にある時計は深夜の二時を指したきり沈黙している。
 もしもこの子が起こしにきてくれなかったらと思うとぞっとした。私は改めて感謝を込めて、優秀な子の頭を撫でておいた。
 けれとその子は私の焦りなどお構いなしに先を急ぐ。早くおいでと呼び掛けるように前を走る姿は可愛いものだった。
 美味しそうな味噌汁の香りに誘われ、身体が向かうのはキッチンだ。

「さーちゃん、おはよう」

 割烹着を着た優しそうなおばあさんが振り返る。その人は振り返るなり表情を和らげ、立ち尽くす私にご飯をよそってくれた。
 とたんに懐かしさが込み上げる。

 おばあちゃん……。この人は私の、おばあちゃんだ。

 私の家は忙しい両親に代わって祖母がご飯を作ってくれていた。幼い頃から祖母の作るご飯を食べて育ち、それは私が大学を卒業して、会社に就職してからも変わらない日常となっていたことを思い出す。
 正確には現在の私ではなく、前の私の話だけれど。
 私はサリアとしてあの世界に生まれる前、山崎沙里亜として別の世界で生きていた。といっても、今思い出したばかりだが。
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