お忍び王子とカリソメ歌姫
 息が止まりそうだった。
 シャイはそんな男性ではない。わかっていた。
 けれど、少なくとも彼女にとっては、エリザベータ様にとってはそれは事実なのだ。彼女の立場からしたら、そう捉えて当然である。ほんとうに愛していたのなら、父に逆らってでも、駆け落ちでもしてほしいと。そう願っていたのだろう。
 しかしロイヒテン様はそれをしなかった。
 婚約破棄を呑んだ。
 それがエリザベータ様にとっては許せないことだったのだろう。
 そしてそれをしなかった理由は『彼女に対する想いがそこまで強くはなかった』ということ。
 しかしおそらくエリザベータ様は少なからず。いや、きっととてもロイヒテン様のことを想っていた。
 そのすれ違いだ。
 サシャは俯いてしまう。
 彼女の嫌味な態度。今なら理由がわかる。
 深い悲しみから来るもの。それに裏切られたという憎悪、ほかにも彼女しか知らない感情がたくさん、たくさんあるのだろう。
 確かにサシャはあのとき彼女にそういう態度を取られ、嫌な思いをした。けれど今では彼女のことを嫌な女性とばかりは思えなかった。
 むしろ彼女の感じた感情を思うと心が痛んで涙のひとつでも出そうだ。自分も同じ立場であったなら、彼女と同じような気持ちになっただろうから。
「彼女の言うこと、間違っちゃいない。事実だ。俺はそういう男だ」
「違うわ。……」
 シャイの言葉をサシャは否定しようとした。
 けれど言葉が出てこない。なにか、なにか言わないといけないのに。
 それでもなにも出てこなかった。軽々しい言葉など、言ってはならないので。
「でも俺は、……サシャに恋をした。はじめて自分から好きになった女性だったんだ。こんな話のあとじゃ、信憑性なんてないな。でもほんとうのことだ。俺の気持ちだ」
 サシャはなにも言えなかったが、きちんと聞いているのは伝わっているのだろう。シャイは続ける。なにか、遠くを見るような眼になった。
「初めて会ったのは、国を飛び出して、庶民のふりをしてカフェに勤めた俺がヴァルファーへおつかいに行ったときだったな。正直、小汚い店だなぁとか思ったよ。悪い、失礼だけど。でもそこで歌っていたサシャに、目を奪われてしまったんだ」
 ああ、きっと彼の眼にはあのときのバー・ヴァルファーの様子や、初めて目にしたサシャが浮かんでいるのだろう。唐突に、くすぐったい気持ちを覚えた。
「ごめん、失礼なことばっかり言う。確かにサシャのそのときの身なりは良いものじゃないと思った。客も酒飲みばかりで、いい環境じゃなかったと思った」
 見ていてくれたのだ。サシャがシャイときちんと出会う前。初めて知った。
「でも、歌うサシャはほんとうに楽しそうだったんだ。心から歌うことを楽しんでる、って顔をしてた。勿論、歌も俺の心に響いたよ。あんな綺麗な歌、俺は聴いたことがなかったんだ。王室の、まぁ……高尚とか言われてる、そういう音楽よりもなによりも、『生きている歌』だったんだから」
 とつとつと話し、そこでシャイはやっと視線をサシャに向けた。サシャの好きな琥珀色。今は硬かった。
「そのあと、サシャとちゃんと知り合って、仲良くなって……っていうのは話すまでもないな」
 笑ってくれた。無理に笑った、という顔だったが。
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