嫁入り契約~御曹司は新妻を独占したい~
「全くない。グループトップの父は病気がちだし、母はもう亡くなっているしね」


会長である薫社長のお父様が病床に伏していることは、社員たちの間でも噂になっていた。


「さっきの商店街はね、母が昔よく行ってたんだ。一緒についてって、よく荷物と持たされてたよ」
「そうだったんですか……」
「実家にいた頃はお手伝いさんもたくさんいたけど、母の手料理をよく食べていたよ。まあ、最近じゃ食事といえばもっぱらビジネスの場って感じだけどね」


それでさっき〝もし食事のメニューを自分で選べるのなら〟って言ってたんだ…… 。
お茶を啜った薫社長を見て、私は胸のすく思いだった。

香山でも、研究所の所長と仕事の話をされていたみたいだし。


「だから、誰かと家で食事をしながら仕事以外の会話をするのも新鮮だなって思ったんだ。これが毎晩っていうのも、なかなか悪くないなって」


ふっと眉を下げ、薫社長は瞳を翳らせた。
俯き加減だからよく見えないけれど、もしかしたら澄んだ涼しげな瞳には、お母様がご存命の頃の温かくて楽しかった食卓の光景が映っているのかもしれない。

薫社長も私と同じように、キッチンには家族との優しい思い出があるのかもしれないな。


「あの、社長。あのとき香山で木塚研究所と進めていた業務提携の話は、私のせいで頓挫になったのでは……」


私は素直な気持ちになり、ずっと心に引っかかっていたことを口に出した。


「いや、あれは君のせいじゃないよ。最初から提携する気なんてなかったんだ」
「え……⁉︎」


予想外のあっさりとした返答に、私は目を丸くする。


「だからもし恩を感じてるなら、その必要はないから忘れて」


執着など露ほどもないといった調子であっけらかんと言い、薫社長はお茶を飲み干すと腰を上げた。
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