家族の紐帯
分かりやすい例を挙げるならば、母の調理方法について考えてみよう。
祖母に常に注意されていることの一つが、「調味料を始めから入れすぎない」ことである。炒飯を作るにしても、ポテトサラダ・マカロニサラダを作るにしても、油が多すぎたり、塩分が濃すぎたりすることが多い。母の言い分はこうだ。(母は必ず言い訳をする。)
「たまに作るはんで、味がわかんねっきゃ。」料理は専ら祖母が行っているので母が料理する機会は少ない。一見すると正論のように思われるのだが、論点がずれていることにお気付きだろうか。「味がわかん」ないとは母の場合「味が濃くなる」ことを意味することが多いのだが、「味が濃くなる」原因は果たして「たまに作る」からであろうか。直接的な原因は祖母の指摘の通りである。始めから調味料を入れすぎなければよいのだ。そこに気をつけていさえすれば、問題ないのだ。「たまに作るから、味が濃くなる」のではない。「最初から調味料を入れすぎるから、味が濃くなる」のである。母の言い分は祖母の指摘と整合しないことがご理解頂けるであろうか。
「どうしても多くなってしまうんだいの。」これならまだ素直だ。「たまに作る」→「手元が狂う」→「つい入れすぎる」という論理展開を思い起こさせ先の母の言い分があながち間違いではないと認識させる。
だが、さらに狡猾になると、
「おばあちゃんやてっちゃんは薄めが好きだけど、私は濃いめが好きだはんでの。どうしても濃くなってしまうっきゃ。」うまい言い訳をこしらえるものだ。だがこれこそ詭弁家の母の真骨頂。あれは濃いめというレベルではない。明らかに塩っ辛い。家族以外の者に食べさせて反応をきけば母も納得する(母自身も食べてみて濃すぎると認識することはあるのだが)かもしれないがそういう機会がないから第三者が母の誤りを指摘することができない。(第三者に注意されたからといって母がそれに従う保証はないが、我々に言われるよりは効果があろうと推測する。)よって我々の注意だけでは完全に母を納得させることができない。そこが母の計算高さであり、強みなのか。まあ最近はようやく味がちょうど良いところに落ち着きつつあるから良しとしておこう。
もう一つだけ、挙げさせてもらおう。母は、(端から見ると)性格の悪いことに、自分のことを棚に上げて他人を非難することに長けている。
祖母に常に注意されていることの一つが、「調味料を始めから入れすぎない」ことである。炒飯を作るにしても、ポテトサラダ・マカロニサラダを作るにしても、油が多すぎたり、塩分が濃すぎたりすることが多い。母の言い分はこうだ。(母は必ず言い訳をする。)
「たまに作るはんで、味がわかんねっきゃ。」料理は専ら祖母が行っているので母が料理する機会は少ない。一見すると正論のように思われるのだが、論点がずれていることにお気付きだろうか。「味がわかん」ないとは母の場合「味が濃くなる」ことを意味することが多いのだが、「味が濃くなる」原因は果たして「たまに作る」からであろうか。直接的な原因は祖母の指摘の通りである。始めから調味料を入れすぎなければよいのだ。そこに気をつけていさえすれば、問題ないのだ。「たまに作るから、味が濃くなる」のではない。「最初から調味料を入れすぎるから、味が濃くなる」のである。母の言い分は祖母の指摘と整合しないことがご理解頂けるであろうか。
「どうしても多くなってしまうんだいの。」これならまだ素直だ。「たまに作る」→「手元が狂う」→「つい入れすぎる」という論理展開を思い起こさせ先の母の言い分があながち間違いではないと認識させる。
だが、さらに狡猾になると、
「おばあちゃんやてっちゃんは薄めが好きだけど、私は濃いめが好きだはんでの。どうしても濃くなってしまうっきゃ。」うまい言い訳をこしらえるものだ。だがこれこそ詭弁家の母の真骨頂。あれは濃いめというレベルではない。明らかに塩っ辛い。家族以外の者に食べさせて反応をきけば母も納得する(母自身も食べてみて濃すぎると認識することはあるのだが)かもしれないがそういう機会がないから第三者が母の誤りを指摘することができない。(第三者に注意されたからといって母がそれに従う保証はないが、我々に言われるよりは効果があろうと推測する。)よって我々の注意だけでは完全に母を納得させることができない。そこが母の計算高さであり、強みなのか。まあ最近はようやく味がちょうど良いところに落ち着きつつあるから良しとしておこう。
もう一つだけ、挙げさせてもらおう。母は、(端から見ると)性格の悪いことに、自分のことを棚に上げて他人を非難することに長けている。