擬似結婚ー極上御曹司の一途な求愛ー

 女子用の入り口に【清掃中】の看板が置かれているが、中からは物音がしてこない。ひょっとして誰もいないのだろうか。

 亜里沙は意を決してそろそろと中に入った。

「誰もいない……?」

 トイレの中はもぬけの殻である。床も濡れておらず清掃した形跡がない。

 男性トイレの入口には清掃中の看板がなく電灯も点いていないことから、そちらに掃除婦がいるのは考えにくい。

「どこに行っちゃったの?」

 動揺しながらも廊下に出て社長室のある奥の方を見つめる。

 長い廊下の先は静かで、人の気配がなく、副社長付の秘書の出入りもない。

 まだ香坂社長には秘書がいない。今のところは適切な人材がいないため、副社長の秘書が兼任している状態だ。

 本人が秘書は必要ないと言ってるのも、要因のひとつなのだけど。

 だから社長室の前に備えてある秘書室はからっぽなことが多く、奥の部屋の中にいるのは常に彼一人だけだ。

 要するに、なにか事が起こった場合に楯となる人物がいない。

 彼を訪ねてみようか。

 社長室に行くための理由はまったく思いつかないけれど、言い知れぬ焦燥感が亜里沙を突き動かした。

 妻だからいいじゃないかと思えども、理由もなく訪ねるのは少しばかりの罪悪感がある。

 そろそろと歩き出して社長室の前まで来るとドアに近づいて耳を澄ませた。

 物音は、しない。
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